えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【新】えげれす通信2023_vol05:北の国から編 (16/02/2023)

明日ロンドンに帰るので、本日2/16はダーラム最終日。本日は、ダーラムの懐かしい場所を散歩することに決めた。ただその前に、何点かの「基本的事項」をクリアする必要が出てきた。

 

①トイレ問題
これはさほどの問題ではなかったが、深い記憶を蘇らせてくれた。えげれすトイレにはさまざまなトラップが仕込まれており、利用者はその都度、それらを克服していかねばならない。克服できなければ、先へ進むことができない。

 

師匠邸のトイレは全部でたぶん三つくらいあって、僕にあてがわれた部屋は3階なんだけど、とりあえずその部屋にはバストイレがある。そして、師匠邸は隅々まで全てが行き届いている家なので、トイレに関するトラップもほとんどなく、初心者でもクリアできる。ただ一点、「流し方」にはコツがあり、そのコツを会得しないと、コトを終えた後、呆然とすることになる。

 

一見何の変哲もないトイレ

トイレのおなじみのハンドルを回す。ただこれは、独特のリズムと呼吸を体得したうえで、相当の力を一瞬に込めて、一気に「…グリン」とやらねばならない。不正解な間合いだと、水は一瞬「ちょぼちょぼ」と流れるだけで、なんというか「アタリ」が来ないのだ。

 

日本の優しいトイレは最近では電気式のボタンになっていたりして、あれはただの「オン/オフ」だから、コツも何もない訳だ。そういう「堕落した環境」に慣れきったヤツは、「ニンゲンのマニュアルな技倆と生きるための本能に全てが委ねられた環境」であるえげれすを生き抜くことはできない。本来、「水を流す」というのは大変なことであり、ボタン一つでできてしまうのは、文明の進歩によるものなのだ、ということを考えさせられる。

 

北の国から、みたいだな

 

ちなみに、師匠邸は大丈夫だが、トイレトラップの別なやつは、「一度流してしまうと、次に水が満タンになるまで、気の遠くなるほどの時間がかかる」というやつ。ダーラム最初のホテルがまさにコレだった。

 

そこは共用のバストイレなので、一人がその場所を長時間占拠するのはまずい。しかしそのトイレの「水溜め」は、相当ハイレベルなチョロチョロだった。

 

しかし、僕はそこで、絶妙な工夫を考案し、トラップを克服した。

 

ふと見たら絶妙な壺があるではないか

これに水を入れてトイレの貯水槽に人力補充をすれば良いじゃないか。

 

ヌルい環境に慣れきった、堕落した日本人のワタクシでも、かつてえげれすの曠野を切り拓いてきた経験は、何処かに根づいていたんだろう。

 

他には、

 

・個室に入ったら紙が無い
(これは実はえげれすではさほど多くない)
・個室に入ったら盥に水が入っている
(これは当然ヨーロッパ以外の国)
・個室に入ったら便座だけが無い
(空中椅子のスキルを要する)

 

などなど、昨今、日本を訪れる外国人に称賛されて得意気になっている、ぬるま湯のトイレ環境に慣れきった日本人は、その都度、経験値と創造的発想を存分に繰り出すことを余儀なくされる。

 

②暖房問題
今年のえげれすはそれほど寒くないので結構助かっているのだが、えげれすの家ってのは、とにかく寒いのだ。暖房は基本的に「温水循環」による。一日の初めに熱湯をたくさん作って貯めて、あとは、家中に張り巡らされた水管を通って熱湯が循環する。なので、家の何処の部分も満遍なく、暖かい。そう、確かに、じんわり、暖かい。

 

ただ、逆に言えば、じんわり暖かいだけで、的確な温度調節、などというコザカシイことには対応できない。暖冬で生ぬるい日差しが差し込むような日でも、

 

じんわり

 

打って変わって、今がまさにそうなのだが、暴風が吹き荒れるめちゃくちゃ寒い日でも、

 

じんわり

 

泰然自若。何も変わらない。微動だにしない。ごちゃごちゃ抜かすな。逆にすがすがしささえ感じる一本気である。日本でありがちな、クーラーや暖房の設定温度争いなんてものは、「何それ、美味しいの?」くらいの取るに足らないものである。個々の部屋に個々の暖房器具が完備されている、なんてことは全くアリエナイので、「設定温度争い」などという堕落したことに気を奪われる日本人は、

 

寒さを凌ぐとはどういうことなのか
(やはり、北の国から

 

この、人としての根本を考えさせられることになる。

 

③風呂
さて、大トリがコレだ。えげれすで「風呂プロセス」を、日本人が思い描く通りに完遂させるのは、ラスボスを倒す並みに大変なことである。

 

師匠邸のバスは、えげれすではアリエナイほど行き届いているので、本来ならこのラスボスは、激弱なはずだった。

 

しかし現在、たまたまだけど、シャワーが壊れているらしい。ちなみにモノゴトがよく「壊れる」のも、広い意味でのえげれすトラップのひとつなので、ある意味、全ては繋がっている。

 

さて、シャワー無しバスをどのようにクリアするか。これはまずまずのラスボスレベルである。

 

しかも、

 

例の「ツープラトン蛇口」

キター
アツアツの熱湯とヒエヒエの冷水がそれぞれ別個に出てくるヤツ。

 

ただし、えげれすで数々のトラップを克服してきたワタクシに死角はないのだ。これはね、特に髪を洗った後にね、

 

(1)背泳ぎ態勢を取る
(2)目を閉じて鼻をつまむ
(3)そのまま潜水(完了)

 

シャワーがなくてもこの奥義で乗りきれるんだよね。

 

それじゃ、最後のススギができないー
泡だらけのお湯で流してそのままなのー
真水で洗いたいよー

 

などと、軟弱で寝ぼけたことを言いがちな日本人は、ヒトが生きていくうえで最も大切な精神を学ばねばならぬ。それは、

 

Never mind(気にしない)

 

で、ある。というわけで、僕の経験値で難なく倒せるはずだった師匠邸バスだが、モノゴトは起きるもの(Things happen)である。

 

お湯がココロボソイ

 

これも、数あるトラップの中のひとつである。そして上でも書いた通り、全ては繋がっているのである。

 

えげれすでは、「熱湯を沸かす」のは、「必要に応じて」ではなく、「一日一回」が基本である。必要な時に適温のお湯の適量が難なく手に入るような、文明の利器に埋没しきった日本人は、

 

お湯ってものはどれだけありがたいことなのか
(やはり日本人は全員、北の国からを見直さねばならぬ)

 

この、至極アタリマエなことを再考させられるのだ。

 

「熱湯作り」が「一日一回」ということは、「使えばなくなる」ということである。

 

そらそうだよね。
買い置きの米だって、使えばなくなる。
醤油だって、使えばなくなる。
お湯だけが、なくならないものだとどうして言えようか(否、そんなことは言えない)。

 

このアタリマエの反実仮想が容赦なく技を仕掛けてくる。技の内容は、

 

最初は熱いが気づけば冷水

 

もう、これに尽きる。「機械を信じたら負け」の国えげれすにあっては、最初、お湯加減を確認した時「適温だ」と判断しても、それだけでは負けが確定してしまう。大事な確認はもう一つ、

 

コイツは果たして最後まで適温なのか?
(お湯が無くなるのではなかろうか?)
(お湯ってのは「使えばなくなるモノ」だったのでは無いか?)
(欲しいモノが欲しい時にすぐに手に入ると思うなよ。北の国からを見ろよ)

 

これをしなければならない。

 

「お湯も貯まったし、さて、風呂に入ろうかな♪」

 

と思って、裸になってバスタブに入ったら、

 

!!!

 

ということは、まま、ある。そして、一瞬で凍えたあなたの身体を、強めに暖めてくれる器具など何処にも存在しない。それは、いつもと変わらず、「じんわり」してくれるだけのシロモノである。この国では、機械を信用し、確認を疎かにした怠惰な者は、屍を晒すことになる。しかし、同時にここは「自己責任」の国。それは、「機械を信じ」「確認を怠った」、浅はかで思慮の足りない人間の、当然の報いである。機械というのは、あくまでも、「人間の生活を便利にしてくれるもの」であり、「そのために人間が作ったもの」であるが、「人間が作ったもの」だけに、「壊れることだってある」わけだ。人間というのは、それほど万能で完全無欠なものではない。人間とは「それなりのもの」である。これがまさに、「イギリス経験論」である。おい、新古典派さんよ、聞いてるかい?

 

師匠邸のバスの「温度」と「残量」に関しては、

 

・初日(途中から冷水)
・二日目(初めて適温適量の風呂に浸かれる)
・三日目(振り出しに戻る)

 

一勝二敗。だが、えげれす暮らしも既に四日が過ぎ、かつて自然の曠野を切り拓いてきた「北の国から精神」が呼び覚まされているワタクシとしては、

 

Never mind (気にしなーい)

 

「二敗」を気にするな。
「一勝」のありがたさを噛みしめろ。

 

That’s very British. ヒトが生きるって、まさにこういうことやね。

 

…というわけで、ニンゲンとしてやるべきことを遂げたワタクシは、懐かしきダーラムの街を逍遥致しました。

 

Durham Cathedral①

 

Durham Cathedral②

 

Durham Cathedral③

 

Durham Market Place

 

Tyne Bridge

 

New Castle Upon Tyne

 

New Castle Station

 

では、明日、ロンドンへ戻ります。

【新】えげれす通信2023_vol04:古都すぎるダーラム編 (15/02/2023)

2/15(水)。
初めてゆっくりと過ごせた日でした。


これまでは、毎日、どこかへの移動があったけど、本日は、師匠邸で論文についての議論をした後、犬の散歩に一緒に行き、教会の用事を済ませに一緒に行った。本日のタスクはこれだけ。

 

ダーラム大学人類学学部は、僕のいたころの場所から移動したらしく、今の建物では、他の学部と同居しているらしい。そしてその他学部では、

 

「構内は犬禁止」

 

なんだそうだ。

 

我が師匠は、当時、研究室に犬を連れてきていた。「犬禁止」ではなかったからなのかどうなのか、そもそも大学において、犬は、「禁止されるべき対象」なのかどうか、少なくても日本人の感覚では、根本がよく飲みこめない。日本の大学で、研究室に犬を連れてくる教員ってのは、ちょっと想像がつかないw


しかし我が師匠は、敢えて嫌いな言葉を使って表現するならば、

 

フ ツ ー に連れてきていた

 

わけですな。

 

それと大事なことがもう一つある。

 

ワタクシ、幼少時代に、犬に軟禁されたオソロシイ経験があり、犬は怖いのです。

 

今は全然いなくいなったけど、学部のころ、大阪の街には、結構ないきおいで、野良犬がいた。彼らは、吠えるし、追いかけてくるし、ワタクシのトラウマを増幅させまくってくれた。


吠える犬ってのが一番怖いわけよ。犬は賢く、躾がなされれば、素晴らしい社会性を身につけられる、とは言うけれど、日本の犬はなかなか信用できなかった。だから、犬はなるべく避ける人生を歩んできた。

 

そのワタクシの師匠が、「フツーに犬を連れてくる人」だったわけだ。


これは困った。

 

ところが、えげれすの犬は、完璧な躾を受けていて、なんというか、信用がおけることが、徐々にわかってきた。吠える時は、理由があるわけで、なんというか、合理的行動をとっていることが次第にわかってきたのであった。僕の犬トラウマは、師匠の犬で、ある程度、克服された。

 

昔習った国語の教科書に、「日本の犬と英国の犬の対比」の話があって、えげれすの犬は躾が完璧だという知識が残っていたのも、トラウマ克服に一役買ったのかもしれない。

 

ところが、人類学学部が移動して、他学部と共用になった現在、他学部側が、

 

「犬禁止」

 

を打ち出した。それで現在は、犬を連れていけなくなったと言って、師匠はぼやいていた。

 

もう一度言わねばならんな。

 

・・・犬って、「持ち込み禁止されるべき対象」なのか??

 

ともかくも、現在は、かつての犬の次の犬が師匠邸にいる。彼女は実に実に社会性があり、理不尽なことは決してしないので、まったく信用できる娘である。


一言も吠えずに、じっとおとなしくソファーに座っているのだが、たまに、突然、吠えだす。なんだ?と思うと、玄関に人が来ていたりするわけだ。なんていうか、テレビで見る典型的パターンのやつだよね。

 

そして本日は、我が人生で初めて「犬の散歩」なるものに同道した。と、同時に、ダーラムのすばらしさを改めて知ることにもなった。

 

最初は、タダの道路を散歩していて、ていうか、「犬の散歩」って、そういうものだよなと思っていたら、急に横道に入った。えげれすには、そこら中にくまなく、「散歩道(public footpath)」というものが存在している。我々が入ったのも、どうやらその類のようだ。

 

急に散歩道

 

すると、さっきまで、通常の道路(というか住居地帯)だったのに、あら不思議、いつのまにか、何やら丘になっているぞ。
ん?すでになんだか山っぽいぞ。
え?あっけなく牧場の中に入ったぞ。

 

牧場によくある「cattle grid(家畜脱出防止格子)」

 

なんで、住宅地から速攻、牧場になるのよ。気を抜くと、奴ら(羊)がすぐにいるカラクリって、こういうことなのか!犬の散歩中に奴らに出くわす、とか、日本じゃありえないでしょ。まさにそれを実地で体感して、僕は深く納得してしまった。

 

さらに進むと、そこはなんだかすでにとっても丘陵地帯になっていて、片側には、なんだかすでにとっても崖みたいなのがあって、その眼下には、なんだかすでにとっても川がゆったりと流れていて、そこからの景色は、まったく素晴らしいものになっていた。中部以北のイングランドの特徴は、「丘」なわけで、まさしくそれを体感した。

 

すぐ羊
すぐに絶景

 

 

眼下に絶景

 

いや、日常的な「犬の散歩」と組み合わせるものじゃないでしょ。どちらも「わざわざモノ」でしょうが。

 

もう一つ、「犬の散歩」につきものの、知識としては知ってるけど、しかしながら経験したことはないものの一つが、

 

アレの処理

 

である。

 

昔、ヨークシャーあたりの丘陵を散歩したとき、奴らがうじゃうじゃいるその爆心地みたいなところを歩いたら、遠くから見るのと近くを歩くのとでは大きな違いがあることを知った。

 

遠くから見れば、ラブリーなんだけど、近くに行くと、アレだらけなんだな。足の踏み場がないとはこのことだ。百聞は一見に如かず、とはよく言ったものだ。

 

しかし、犬の場合は、そうはいかない。日本でも、その筋の世界では、いろいろと議論や問題があるらしいじゃないの。

 

犬が立ち止まり、師匠も立ち止まった。

 

今までだって、犬は何度も立ち止まってたんだけど、師匠は別に立ち止まらなかった。しかし「その時」は、驚くべき同期感で、彼らの行動が一致した。

 

むぅ。
そういうことなのね。

 

コトが終わると、師匠は袋を出してアレを入れた。うんうん、見たことないけど、聞いたことある。

 

しかし、次の刹那、師匠はその袋を道端に置いた!

 

え?
ええ?
えええ?!

 

そういうこと、して良いの?
そういうこと、しないのが、えげれす人なんじゃないの?
なんだ、何かそういう回収公共サービスみたいなのがあるの?!

 

若干の不信と不安を持ちつつ、さらに道を進む。

 

てっぺんに着くと、そこにはベンチがあった。

 

この、「ちょっと良きところには、すぐにベンチ」というのも、えげれすの素晴らしいところである。公共とは何なのか。社会とは何なのか。この難しい問いも、えげれすで暮らせばすぐに、その答えがわかる。さすが、「社会の作り方レシピの考案者を輩出した国」だ。

 

師匠によると、ここは、かつて、貯水池(reservoir)だったらしい。川から水を引いて、水がめにしていたらしい。

 

かつての貯水池


そして、この場所から後ろを振り返ると、えげれす三大聖堂のひとつ、あの、ダーラム大聖堂(Durham Cathedral)の絶景が!
・・・うわ、これは予想外だったぞ。

 

 

すぐ聖堂~
すぐに絶景~

 

 

なんということでしょう!

 

いやあ、気を抜けないわ。。。

 

すると師匠と犬の動きが、再びシンクロし始めた。僕は何が起こるのかさっぱり予測がつかなかったのだが、犬は既に、何かを待ち構え、その臨戦態勢に入っている。今まではユルく歩いていたのに、この突然の変化はなんなんだ?

 

おお!
見たことあるやつ!

 

ひつじのショーン」のビッツァーを思い出した

 

ボールらしきものを投げる師匠と、投げる前から既にダッシュモードに入っており、投げる一瞬前の段階でダッシュを始める犬。この、「投げる一瞬前」というタイミングが絶妙だった。「投げたのを見てからダッシュ」じゃないんだね。「今から投げるのね」って、投げる前に感じて、予測のもとにダッシュをするのね。すげー、なんだこれ。

 

ひつじのショーンで犬のビッツァーが、普段は羊を世話するニンゲンの側として合理的に行動するのに、「投げるヤツ」を見た瞬間すぐにイヌの合理性を取り戻し、コーフンして臨戦態勢に入るシーンが時々出てくるが、まさにアレだった。
(因みに本日の議論のテーマは「合理性は唯一無二ではなく、社会や個人の文脈の中で、多様に存在するのではないか」というもの。今回は「出張」ですよ)

 

「ここで投げてください」というためだけにあるとしか思えない場所(笑)で、犬は思う存分、この「見たことあるやつ」を満喫していた。

 

大聖堂バックの「見たことあるやつ」
・・・これも絶景やないか

 

絶妙すぎる場所

 

すぐ「見たことあるやつ」~♪
すぐに絶景~♪
(字余り)

 

 

ていうか、このCMソングって、なんだっけ??チキンラーメン

 

帰り道、師匠は、例のブツ袋を回収した。なーんだ、帰りも通るから、ただ置いておいただけだったのね。

 

ところが、えげれすの懐の深さを見たのは次の瞬間だった。これまでもきっと何度も目にしてはいたんだろうけど、気に留めてはこなかったから記憶のストックには無いもの。この赤いポストは、「ブツ用箱」なんだって!そういうシステムが成立しているんだねえ。


さすが、公共性の国。
さすが、犬の国。
深く感服いたしました。

 

シャア専用ザク、みたいな、ブツ専用ポスト

 

帰宅後、次に、近所の教会の用事に同行した。なにやら、明日、近所の会合があるらしく、そのための準備に必要なものを運ばねばならないらしい。一応、そのように聞いたけど、僕は、なんとなく、「その辺にあるちょっとした教会」だと思っていた。

 

しかし、着いて、中に入ってみると、それは尋常じゃないシロモノだった。

 

裏口なので余計に「ちょっとした教会」っぽい

St. Oswald's Church。最初の教会主(Lord)は、西暦1150年だそうで、その名前が刻まれている。

 

イカツすぎる教会

 

おいおい、イイクニツクロウ、もとい、今は、イイハコツクロウの時代よりも古いじゃないの。なんでそんなイカツいシロモノが、その辺にサクッとあるんだよ。まあ、ダーラムは、エゲツない歴史的な町だから、それはそうなのかもしれないけど。でも、だとしても、「フツー」に登場しすぎでしょ。

 

 

すぐ古い~♪♪
すぐに古い~♪♪
(これだと字数が合うね)

 

 

というわけで、本日は、実にゆったりと、古都ダーラムを堪能しました。

【新】えげれす通信2023_pics① (14/02/2023)

かっこよいヒースロー(stylish Heathrow)

ヒースローの簡単な入国審査(Very easy process of entering UK at Heathrow)

これだよね(This is it

しびれるねえ(quite impressive)

安い芋は神(In London where the price is expensive, this is it!)

これ、懐かしくない?(Don't you think it is nostalgic?)

ポン酢かよ(You said "ponzu," didn't you?!)

懐かしい店たち(nostalgic shops)

こんなのできてた(Such service has started, which I don't expect)

懐かしい店たち(nostalgic shops)

これもロンドン(This is also London)

懐かしい店たち(nostalgic shops)

まだある(still being)

まだある(still being)

日本では曖昧、えげれすでは明確(In UK it is clear while confused in Japan)

こんなんできるんか(You have grown up enough to do such kind of things)

これ木のエスカレータじゃなかった?(Wasn't it a wooden escalator?)

これがキンクロなのか?!(It is Kings X, isn't it?!)

懐かしい店たち(nostalgic shops)

懐かしい店たち(nostalgic shops)

セントパンクラスにあるのかよ(Why being in St Pancras?)

まだある(still being)

懐かしい店たち(nostalgic shops)

キングスクロスってこれのイメージ(the symbol of Kings X?)

 

【新】えげれす通信2023_vol03:ダーラムへ編 (14/02/2023)

冬のロンドンの朝。。。この感じ、懐かしすぎる。天気が良いんだか、悪いんだか、なんともどんよりした、気が滅入るような感じ。しかし、今日もまた、昨日に続き、むちゃくちゃ晴れの、暖かい、気持ちの良い日でした。

 

 

安物のティーバッグでも、これでもか、とお茶が出る出る、硬水で淹れたモーニングティーを楽しみ、えげれすの一日目が始まった。

 

 

とはいえ、本日は、ワタクシが学問を修めた地、Durhamへの移動がメインである。列車の出発は14:30、キングスクロス。ホテルのチェックアウトは11時だったので、ぎりぎりまで部屋で粘り、それからゆっくりと移動をした。

 

キングスクロス
セントパンクラス
ユーストン

 

これら近接する三駅は、我ら、SOASで学んだ者にとっては、地理的に愛着のある駅である。例えば「駅の格」からいけば、ヴィクトリアなどの方が上だけど、SOASはロンドンの北の方にあるので、北に位置するこれらの三駅には馴染みがある。

 

列車の発車時刻まで余裕があるので、最初は、キンクロのパブあたりで時間をつぶそうかなと思っていた。なので、ピカデリーラインで向かう。

 

時間があるので、最初はセントパンクラスを探訪した。

 

セントパンクラス
ゴシック様式、なのかどうかわからないけど、とにかく、尖塔のように聳え立つ、威風堂々たる外観からは程遠く、かつてのこの駅は、はっきりいって、しょぼかった。ロンドンからの近距離中距離路線がちょぼちょぼ発着するだけ。あの威容を見ると、どんだけの優等列車が発着するのか、と想像するけど、実態は、かなりしょぼい。

 

 

かのユーロスターの発着駅が、ウォータールーからセントパンクラスに移ることは、僕が住んでいた時から決まっていたことである。知ってはいたけれど・・・あのしょぼいセントパンクラスユーロスターが?!
ほんまに来るんか?!
んなわけないやろ!
と、当時は思っていた。

 

言ってみれば、

 

東海道新幹線の発着駅が、東京ではなく、駒込になります。

 

みたいなもんだ。
あるいは、

 

新大阪を廃止して、芦原橋に、新幹線駅を設置します。

 

みたいなもんだ。(どちらも威風堂々たる建築物はないけれど)

 

・・・んなわけないでしょ(笑)。

 

ところが、本日行ってみたところ、あのセントパンクラスが、威風堂々建築を残しながらも、近未来的部分をくっつけて、半魚人みたいになっていたぞ!

 

 

すげー。
本当にブリュッセル行きが止まってるーーー。

 

 

物事は変わるもんだねえ。。。
Things have changed.

 

かるくコーフンしたまま、隣のキンクロに移動する。こちらは・・・安定の、オレの知ってるキンクロだった。安心したぞ。

 

 

・・・と思ったら、何かが違う。何か、違和感があるぞ。

 

まず、この導線は何だ?次に、このオサレな、ロゴは何だ??

 

 

中に入ると・・・

 

 

!!!

 

なんじゃこりゃーーーーーーー

 

こんなの、キンクロじゃない。ホームレスとかっぱらいの街、それがオレたちのキンクロだろ?なんでこんなにオサレになっちゃったの?背伸び感が半端ないよーーー。

 

・・・あれ。どっかで感じたこの感じ。ホームレスとかっぱらいとオサーンの街が背伸びしちゃってる感。。。

 

 

 

天 王 寺 ですやんか

 

 

 

日本一の高さのビルを作っちゃう町、天王寺
日本一の座をあの横浜さんから奪っちゃう町、天王寺
渋谷109をもってきて、「渋谷109天王寺」というわけわからん店を誕生させる町、天王寺

 

そうか、キンクロは天王寺だったのか(違)。

 

変わったのは駅舎だけじゃなかった。列車も、そしてオペレーションも、変わっていた。

 

入り口で感じた、導線の違和感。あれは要するに、「改札」を設置したことによるものだった。日本の鉄道では、「改札」はあるのが基本で、きっぷに入札してもらわないと入れないエリアと、誰でも入れるエリアとが区別されている。他方、えげれすを含むヨーロッパでは、基本的に「改札」はなく、乗車するときに入札してもらう必要はない。不正乗車が見つかれば、鬼レベルの罰金が科されるけど、基本は、「人間の良識に任せる」というオトナのシステムだった。僕はそこが好きだった。

 

そんなえげれすのキンクロには、見張りが立って厳格にチェックしている改札ができていた。さらに、あろうことか、車内検札が導入されていた。しかも、駅に停車するたびに、新規の乗客の検札をいちいちしに来る。

 

んーん、これはえげれすじゃない。
ここはオトナの国じゃなかったのかよ。
なんか、ちょっと、哀しくなった。

 

さらに車輛は、オソロシイ進化を遂げていた。

 

なんと、ドアは自動開閉式でボタンで開け閉めができるのだ。

 

えげれすの鉄道のドアというのは、長らく、人力ロック解除式だったのです。しかも内部からは開かない。ロック解除のハンドルは外部にしかない。ということは、乗るときは良いけど、降りるときは、

 

①窓を開ける(下す)
②腕を外に伸ばして外部のハンドルを回してロック解除
③やっと降りられる

 

これが伝統なのですよ。なんでかというと、紳士淑女のみなさんは、ご自分でそんな動作は致しませんので、ドアの開閉という作業は、「係」の仕事なわけですよ。

 

その伝統を捨てやがった!
なんてこった。
古いものを大切にする国じゃなかったのかよ(二回目)。

 

もろもろ衝撃を受けつつも、列車はキンクロを後にした。


次に欲しいのは、当然、「奴ら」の姿である。奴らはどこにでもいる。どこででも、草を食ってる。気を抜くといつでもすぐに現れる。そう、羊。

 

えげれすのどんな町でも、車でも鉄道でも、10分も行けば、すぐに姿を現すわけだ、ロンドンでも、20分は要しないだろう。

 

しかし、これが、現れない。第一村人、ならぬ、第一奴らを確認したのは、40分が経過したときだった。

 

なんだ、どうした?物事は変わってしまったのか?
ブレグジットで、奴らもどっかに行ったのか?
金融引き締めで、奴らも引き締められたのか?

 

そんなこんなでDurham到着。本日のメインイベントは、ワタクシの師匠に会うことです。駅で待ち合わせ。14年ぶりの再会で言葉が詰まる。ワタクシの留学生活及び研究生活は、この師匠と、日本の師匠抜きには成立しなかった。

 

ここからは個人情報満載の話になるので、要点のみで。

 

・ダーラムの宿を三泊予約し、支払い済みなんだけど、結局、師匠邸に泊めてもらうことになった
・奥さんと息子氏に初めて会った
・毎週火曜日は息子氏の料理担当日らしく、彼の作ったディナーをご馳走になった
・えげれすの家庭の、オーセンティックな「ディナー」というやつを初めてフルに体験した
・えげれすの家庭の、オーセンティックな住居のありようというやつを初めてフルに見た

 

例えば、写真とか絵がたくさん飾ってあるわけですよ。そしてその絵を描いたのは、「師匠のひいばあさんの父親」だとか、とにかく、ファミリーヒストリー感がすごい。そういや、当時住んでた家の大家のおばちゃんが、僕が台所にあった皿を無造作に使ったのを見て、

 

「・・・それは、私のひいおばあちゃんから受け継いだ皿なの」

 

と、遠慮がちに言ったことがあったな。決して「使わないで」という言い方はしなかったが、「できればあまり使わないでほしい」という控えめな感じを出していたな。僕も何も知らなかったので無造作に使ったわけだけど、えげれすの、ある階級の家ってのは、そういうものを大事にしてきたんだろうな。そのあたりの感覚というか、感触というか、そういうものは、彼らのプライベートな空間にある程度入り込まないと、見えてこないものだわな。なんというか、しみじみとしてしまいました。

 

あともう一つ。
ホンモノ暖炉を初めて目の当たりにした。

 

パブなんかで、結構、暖炉は見かけるんだけど、よく見ると、似非なことが多い。ブツは本物だけど、現在は使用していません、みたいな奴。たまに田舎のパブとかに行くと、ホンモノの炎がガンガン上がっている「ガチ暖炉」を見ることはある。しかし、「点火」のプロセスを完全に目撃したのは今回が初めてだ。

 

昔は石炭が使われていたわけで(今は法的に禁止)、この古い暖炉の奥からは、嘗て使用された石炭の滓がいっぱい出てくるんだそうな。石炭の方が「つけ方」は難しいのかと思って師匠に聞いてみたら、

 

「同じかな。時間はかかるけど。でも原理は一緒だから(the same principle)」

 

じんわりくる表現ですなあ。

 

さて、今宵の宿は、えげれすでよくある「パブの二階」でした。そういや前回のちゃんちゃんこ式の時も、泊まったのは「パブの二階」のB&Bだったな。受付兼パブスタッフのおねえちゃんが北部訛で何言ってるのかほぼわからなかったけど、悪いところではなさそうだ。ただ、師匠の自宅泊という魅力的な事態になったので、明日からの二泊分は、無駄になるけど、これもまた、旅というものでしょう。

 

さて、明日は、今回の出張(not「旅」)の目的である、「僕の論文についての、師匠とのディスカッション」を行います。まじめな一日なので、報告することはないかもしれませぬ。

 

 

 

 

 

【新】えげれす通信2023_vol02:えげれす到着編 (13/02/2023)

着く早々、衝撃が襲う。


前回のえげれす行きは、ダーラムでちゃんちゃんこを着た後、スコットランドを周り、最後はアバディーンから出国した。なので、若干の「ババ臭」のする、スコットランド紙幣が残ってしまった(ちなみにスコットランド紙幣もイングランドで使えるが、受け取った人は、微妙な「ババ感」を感じる)。イングランド紙幣と合わせて3枚、合計£50が残ったものの、必ずまたえげれすに来ることは確実なので、両替もせずに、来るべきその日のためにとっておいた。


本日2/13、とにかく長かった13時間のフライトを経て、ロンドンヒースロー空港第二ターミナルに到着。良く考えたら、例のエアバスA380(総二階建て)だった!駐機しているのは成田で見たことあるけど、サクッと乗ってしまったぜ。そういや、あのコンコルドも、サクッと飛んでいるのを見たのもヒースローだった。やはりここは格が違うね。

 

 

なんだか近未来ちっくな、シンガポールちっくな感じになっているヒースローにたじろぎつつ、しかし、どんだけ近未来になろうとも、すぐ目に入るところにある店は、安定の「WHSmith」と「Boots」な訳で、見た目には騙されない。そして僕は、空港ならと思い、早めにババを切りに行った。


(Bootsでサンドイッチを買うのにスコットランド紙幣を出す)
店員「う…」
僕「何か問題?」
店員「(隣の店員に)これっていけたっけ?」
隣の店員「これって何が?」
店員「いや、スコットランドのよ」
僕「スコットランドもいけますよね?」
隣の店員「いや、そこじゃなくて」
店員「ん?」
僕「ん?」
隣の店員「紙は使えないわよ」


なんたることか。もしかして既にチャールズ仕様になってるかもな、くらいは考えていた。しかし、エリザベスはエリザベスでも、今のポンドさんは、紙じゃなく、プラスチック製なんだって!そして、いや、そこまでは良いとしても、僅か15年前の紙のヤツは、使えないんだって!


おいおい。アンタら、「古いものを大切にする」人たちじゃなかったっけ?「まだ使えるから」って、白黒テレビを見続ける人たちじゃなかったっけ?日本だって、板垣100円札だって未だに使えるぞ?


呆然とした僕に、優しいBoots店員の二人は、


「銀行に行った方が良いよ」
「ちょっと古すぎたわね」


言葉をかけてくれた。よし、この問題は、しばしペンディングだ。


変わってしまったえげれす。そんな思いで少し意気消沈していたワタクシですが、ヒースローからの交通手段も複数できてなんとも便利になってしまったなぁと逆に寂しさを感じたワタクシですが、市内に出るのは、昔も今も、ピカデリーラインの一択、便利な新しい奴らには見向きもせずに、あくまでもピカデリー一択、な訳ですよ。やたら近未来的な空港からピカデリーの駅にやってきて、コーフンしてしまいました。…いや、全く変わってない。これよ、これ。これなんだよ。


ホーム床には「Mind the Gap」。
壁面のポスターを眺めて乗るエスカレーター。
「座席に脚を乗せないでね、いや、乗せるなよ」他の、「やったら罰金やで」noticeの数々。

 

 

次第にコーフンしてきたぞ。


今宵の宿はアールズコート。ここは安宿街で有名だけど、僕は泊まったことはないし、降りたこともない。ただ、駅を降りて目の前を見るや、さらなるコーフンが襲ってきた。


テスコ!(うむ、これだよ)
家の佇まい(全くえげれす)
「£20くれ!」というホームレス(いや、要求高くないか?ホームレス界もインフレなのか?)


今宵の晩飯はテスコ(スーパー)の惣菜メシにすることに決め、チェックインの後に、改めて買い物に行った。まぁノリとしては、大阪に着いて、ライフに行くようなもんかな。


そして今宵の晩飯がコレ。節約必至で辛いところだけど、このラインナップで、酒も含めて£16というのは、我ながらなかなかの買い物だったな。コーニッシュパスティを思いつくところが、我ながらグッジョブである。

 


Newcastle Brown Ale は、やはりマストだし、袋入りのサラダにハニー&マスタードのドレッシングは、住んでた時のド定番だし、本当に美味しくないコールスローは、「やはり…不味い」と確認し発言せねばならないブツだし(この類には、他に、サンドイッチやホットドッグなどがある)。


ただ、ヒースローからここまでで、僕が一番、「えげれすはやはり良いなあ」としみじみ思ったのは、実は違うんだな。


ロンドン地下鉄は車内が狭く、人と人はかなり接近することになる。しかし、ありがちな「コイツ誰やねん」的な視線を浴びせられることが皆無である。どんなに接近しても、絶対、と言って良いほど、目を合わせることも合わせられることも、ない。この感じ、同じ日本人である日本国内でもないし、例えばイタリアとかの海外だと、ない、ということはあり得ない。それくらい、他者に対して、ある種の不躾な態度というのは、どこの世界にもあると思う。


…しかし、この国には、無いんだな。少なくとも「無いようにしなければならぬ」という価値観は行き渡っている。コレがどれほど心地よいか。


同時に、ここが重要なところだが、だからといって「不親切」な訳でも無いし、「無関心」な訳でも無い。このバランスが全く素晴らしい。困っていればとことん付き合ってくれる。先程のBoots さんたちのように。そして、これは人間の基本だと思うけど、挨拶をきちんとする。先程のテスコのレジ打ちのインド系オッチャンも、強面で、通常なら愛想無しか!と思うところだけど、きちんと最初は「こんにちは」、終わったら「ありがとう」と笑顔で言う。このアタリマエ、できるようでできてないし、やってるようでやってないよね。えげれすでは、このアタリマエが、アタリマエなのです。


いやあ。It’s very British!
明日はダーラムへ。

【新】えげれす通信2023_vol01:シンガポール編 (12/02/2023)

長い!

 


本日、2023年2月13日。ただ今、シンガポール航空で、ロンドンヒースローへ向かう機上におります。ルートを見ると、イスファファンの北、バグダッドの東の辺りを、北西に飛行中。今朝9:00にシンガポールチャンギ空港を発ち、二度目のメシを喰ったところです。ここまで6661キロ、7時間35分を飛び、残りは4817キロ、まだあと5時間59分もあります。

 

 


イスファファンって何処の国だっけ?バグダッドイラクだよな。この湖ってカスピ海だっけ?中東の地理は弱いんだよな。ウクライナの関係でシベリア上空を飛べないから、南回りのルートになる訳だが、えげれす行くのにこのルートは初めてだから、なんとなく、時間の流れ方が読めない。いつもは、「いけどもいけどもシベリア上空」だったから、「何処まで行っても、まだ静岡」みたいなもんで、時間の流れ方も何もそもそもあったもんじゃなかったのだが。

 


しかし、15年以上ぶりのえげれすでございます。前回はPhDのガウン(還暦のチャンチャンコちっくなやつ)を着た2007年のCongregation の時だから、めちゃくちゃ久々ですわ。どうやらロンドンもだいぶ変わったようで。それは今晩からのお楽しみでございます。

 


航空券をどれにするか。南回りだと、キャセイシンガポールベトナム、タイ、マレーシア、トルコ。だいたいこの選択肢で、あとは値段で決める訳である。最初はマレーシアにしようと思っていた。クアラルンプール、良いじゃないですか。バンコクかクアラルンプールでしょう!この中じゃ。クアラルンプールは物価が安く、結構良いランクのホテルも驚くほど安く泊まれるってサイトで見たぞ。アジアはほとんど行ったことがなく、同時に食指もあまり動かないワタクシとしては、バンコクとクアラルンプールは、アジアでは珍しくちょい惹かれる場所だった。

 


しかーし、もろもろのタイミングでシンガポールになっちまった。シンガポール…ねぇ…。オレの興味と一番真逆かもしれん。ただまあせっかくだし、行きは一泊、帰りは二泊、することにしました。

 


昨日2/12、成田から出発。シンガポール航空は、とにかくシュッとしている。イマドキの飛行機は何処もそうなのかもしれないけど(なにせ国際便は久しぶり)、アプリでオンラインチェックインができるだけでなく、機内食の指定までできちゃう。搭乗すると、スマホとリンクさせて、機内サービスがスマホからできちゃう。機内食は何やらカルビ丼ちっくなやつで、さすがシンガポール航空、メシは美味い。メシは美味いけど、なんだかシュッとしすぎてる。

 

 


成田チャンギはだいたい8時間。東京から大阪へバスで行くくらいやね。割とあっという間にチャンギ到着。

 


まぁ、なんと、豪華絢爛な空港だこと。街並みも、えらく近代的だこと。いちいちシュッとしてるんだよな。いや、悪くはないよ。悪くないけどね。でもねぇ。

 


シンガポールの物価は恐ろしく高い(ただし、国家としてのキャラが立っているというか、例えば公共交通機関の料金とかはめちゃくちゃ安い)。この辺、やはり、えげれす軍団の一味なだけはあるわな。やたら路線網が発達している地下鉄で、やたら高価すぎるホテルへ向かう。地下鉄は完全自動運転だって!シュッとしすぎだろ。

 


ホテルは、口コミでは酷評されていた。なのでどんなところかと心配したけど、全く問題ない。口コミでは、「狭すぎる」(それはそう)、「アレでこの値段は高すぎる」(それもその通り)、「フロントが無愛想」(それは主観)、とあったが、気になっていたのは、

 


「部屋のシャワールームと部屋の段差がなく、水が部屋に流れ込んでビシャビシャ」

 


いったいに「口コミ」というやつは、「何処まで細かいところほじくって書くんだよ」というのが多い。しかも、特に海外の場合には、「ガイコクに何処まで求めるんだよ」とツッコミたくなる「清く正しく美しく」の日本人的書き込みが多くてウンザリする。日本と同じモノを海外に求めるんじゃないよ(日本に求めるのも、それはそれで違うと思うが)。

 


自販機にコイン入れてもブツが出てこない時も慌てちゃいけないんだよ。
信号機が壊れて点いていなくても「まぁそんなこともあるさ(Never mind)」と言って慌てちゃいけないんだよ。
ATMでキャッシュカードが吸い込まれて出てこなくても、後ろに並んでるオッチャンに笑顔で「Eaten」と言って、サクッと立ち去らなきゃならないんだよ。
(すべてえげれすの実例)。

 


海外をなんと心得る。

 


我がホテルは、めちゃくちゃ綺麗。酷評されるところは全くない。受付のにいちゃんも気さくで、全く文句を言うものではない。

 


しかーし、段差はホンモノだった。シャワールームもめちゃくちゃオサレなんだが、段差が全く無い上に、ドアの下が何故か空いてる。シャワールーム内の排水溝までの傾斜もほとんどないので、どう工夫しても、洪水は免れない。

 

 


僕は、ここにきて、ようやく安心した(笑)。全てがやたらシュッとしているシンガポール。全てがなんだか近未来ちっくなシンガポール。全てが例外なく煌びやかなシンガポール

 

 


…しかし、ここはやはり、えげれす軍団の手下だった。軍団の遺伝子は忠実に受け継がれているのだった。

 


シャワーはあるが、すぐにお湯がなくなり水シャワーになる国えげれす。
バスタブはあるが、シャワーの設置はなく、洗えないし流せない国えげれす。
お湯と水の蛇口が別で、熱湯が冷水のどちらかでしか洗えない国えげれす。
懐かしさがこみ上げる。

 


アンタら、やたらと見た目はシュッとしてはるけど、やはり「軍団所属」なんやな。もっとも「親分」の方は、見た目もシュッとしてないけど。

 


よくよく気をつけてみれば、二階建てバスはいるし、「Mind the Gap」の殺し文句もあちらこちらに見るし、出口表記は「Way Out」だし、徐々に「子分感」が滲み出てきたぞ。

 


そんなこんなで、今朝早くホテルを出て、再びチャンギ空港へ。シンガポールからロンドンは13時間のフライトだ。シベリア経由なら日本からヨーロッパはだいたいそのくらいだから、これがまさしく「えげれすへ飛ぶ感覚」ということになるんだけど、ルートが違うので些か違和感がある、という冒頭の話に戻ります。

 


今回のシンガポール航空さんも、やはり、シュッとしてはります。スッチーさんも、まぁ優秀。頼んだことを忘れない。これがね、例えばフィジーとかだと、そうはいかないんだな。やはり常に満足度トップのエアラインですな。

 


メシも美味いね。先程の二度目の飯なんて、シーフードのフォーですよ。揚げた魚がちゃんと2切れもあるし、海老もたくさん入っていて、味付けもとても良い。デザートのチョコレートケーキも、「子分」とは思えぬほど、「親分」の悪いところを受け継がず、甘さ控えめで全く美味い。

 

 


ただ、一度目の飯は、なんというか、ワタクシの6時間後を思い出させてくれるのに十分なほどであった。

 


メニューには、こうある。

 


Veal sausages
Tomato ragout, savoury bread pudding, creamed spinach with mushrooms 

 

 

 


待て待て待て。
書いてないやつがあるぞ。
書いてないけど、いつもそこにいるやつがあるぞ。
書かんでもわかるやろ、的なやつがいるぞ。

 

 

むう。6時間後、オレは彼の国にいる。

【旧】えげれす通信_vol45:ヒッコシ (27/09/2000)

ガソリン代に占める税金の高さと、それに伴うガソリン代そのものの高さを不満としたデモが、海を隔てたフランスで始まった。トラックが、ドーバートンネルを封鎖したというニュースを、僕は部屋で寝転びながら見ていた。

 
「なかなか思い切った行動に出たねえ」
「流石、おフランスは、血が濃いわ」

 
***

 
愈々、倫敦を離れる日が近づいてきた。諸事情を勘案すると、次第に日程が決まってくる。客人に会う日、雑務を片付ける日、飲みに行く日、等々。常に引越し前というのは、慌しいものである。

 
今回の引越しプランは、次のようなものであった。

 
・第一次引越し(レンタカーで荷物運び)
・一旦倫敦に戻り、二泊した後、ビザ更新のため海外旅行
・第二次引越し(身一つで新居に移住)

 
ヤサガシという最重要事項を片付けて、残る懸案事項は、次の二つである。すなわち、「レンタカーに荷物が載り切るか否か」「学生ビザの更新がスムーズに行くか否か」。然し、この第二の点に関しては、前年の西班牙旅行の際、全く問題が無かったし、「語学学校」ではなく「大学」の、レターがあれば、鬼に金棒、黄門様に葵の印籠、である。問題は起ころうはずもない。余裕綽々な訳である。しかし、第一の点、車の件は、頭が痛い。僕は、一人暮らしのくせに、荷物が多い。然も、その殆どが、割れ物と本なので、扱いがなかなかに大変なのだ。

 
今回借りた車は、ワゴンの中型である。載り切らなかったら郵送することも考えて、それなりの荷造りをした。テレビは既に処分済み、パソコンは、電話を止めたため、ネット接続ができない。数日間の、完全に情報から遮断された生活が始まった。

 
前日、僕は友人と日本食レストランにいた。「倫敦に住む」と云うことは、すなわち、日本のモノには事欠かないということであるが、「倫敦を離れる」ということは、今度はむちゃくちゃ事欠くということである。これまで、見向きもしなかった日本食レストランでさえも、しばらく来られないかと思うと、万感の思いがある。「地球最後の日」の前日に食べるものを選ぶ心境に似ている。初めて行った店だったが、僕の最も好きな、「酒菜」系が充実してる店で、僕は大変に満足した。

 
然し、暫く外界から遮断された生活をしていた僕に、突然降ってきた情報は、実際、かなり痛いものだった。

 
「石油(ガソリン)危機が起きているらしい」

 
数日前、寝そべってぼんやり見ていたフランスのデモが、ヨーロッパ中に波及して、えげれすの地でも、ガソリンを運ぶローリーがストを起こしたり、基地を封鎖したりして、ガソリンの供給が麻痺しているのだそうだ。

 
おいおい、こっちはヒッコシなのよ。勘弁してくれ。

 
然し、そのときはまだ、僕は事態を甘く見ていた。依然として、僕の心を占める最重要事項は、荷物を完全に積載できるかどうか、である。ガソリンなんて、ららーらーららららーらー♪という感じである。僕は、その飲み屋で、花わさび漬けを摘みに冷酒を飲み、いい気分で家に戻った。

 
さて、当日は雨であった。全くこんなときにも、やっぱり雨かい、うーむ、as usual...、ぶつぶつ言いながら、レンタカー会社に向かう。そこは、家からバスで15分くらいの、めっちゃ近所である。余裕ぶっこいていた僕は、契約が13:00からなので、まぁ12:00ちょい前に出ればOKだろうと思い、雨の中出発した。

 
世の中は全て普段通りであった。雨も降っているし。

 
異変を感じたのは、バスに乗って5分くらい行ったところであった。対向車線が、やたらに渋滞している。なんかイベントでもあるのか?どっかのスーパーが開店セールをするとか、劇的な大安売りがあるとか?でも、この国で、そういうイベントとか、それに伴う渋滞とかは、あんまり見たことがないなぁ。

 
幸いこちらの車線は空いていたので、バスは快調に飛ばした。で、地図を見ながら、どのバス停で降りようかと、ぼちぼち考え始めた矢先、今度はこちらの車線も渋滞し始めた。

 
あちこちで大安売りがあるんだな。鬼のように美味い「フィッシュ&チップス」屋が開店とか、かな。

 
進まない。

 
そうか、分かった。ドライブスルー「フィッシュ&チップス」という、画期的な店ができたんだな。

 
進まない。

 
「当店では、作り置きはしません。注文を受けてから揚げます」という殺し文句を考えたものの、客の導線には気が回らず、むちゃくちゃ渋滞しているのかな。

 
進まない。

 
「コッド&チップスください」
「ハドックもお付けしましょうか?」
「あ、お願い」
「プレイスはどうしましょう?」
「それも良いなぁ」
「ビネガーはいかがしましょう?」
「体、柔らかくなって、ふにゃふにゃになって、立たれへんようになるくらいかけて」
「お時間10分ほどよろしいでしょうか?」
「待っています」
これを一人一人やっていて、進まないのかな。

 
・・・

 
然し、まったく進まない。レンタカー会社に13:00までに着くのが怪しくなってきた。30分で、進んだ距離は500mくらい。歩こうかとも思ったが、地図を見ると、まだ遠いし、チューブの駅も、ちと遠い。困ったぞ。

 
40分くらいじわじわ進んで、漸く、渋滞の先頭が見えたとき、僕は一気に全てを悟った。片側一車線、しかもえげれすの道幅は狭いというこの状況で、みんな、ガソリン待ちをしているのだ。そして、ガソリン待ちじゃない車も、それを追い抜いていけない状況であった。それで、絶望的な渋滞が起きているのだった。

 
然し、僕はまだ楽観的だった。何故なら、僕は、「レンタカー」を借りるのである。レンタカーってのは、ガソリンを満タンにして貸してくれるものである。世の中の苦しんでいる人々を尻目に、こちらはさくっと走ってやれ。中型で、荷物を積むから、燃費は悪くなるとはいえ、倫敦を脱出することくらいはできるだろう。

 
・・・甘かったのだ、認識が。このガソリン危機は、僕が想像していた規模を遥かに超えているらしいことが、次第に分かってきた。気をつけて見てみると、街中のガソリンスタンドは、8割方、閉まっている。補給のローリー車がそもそも来ないので、各スタンドの貯蔵タンクが空になって、売るにも売れなくなっている状況のようだ。で、たまに開いているスタンドがあると、そこでは鬼のような渋滞が生じている。そして、何よりショックだったのは、借り出すレンタカーのガソリンが、何と半分しか入っていない!

 
「すみませんなぁ。知ってのとおり、ガソリンがないもんで、今日は、半分しか入ってないんですよ。だから、返すときも、半分で返してね」

 
レンタカー会社のおばちゃんは、こうほざく。すると、そこに、ある兄ちゃんが、車を返しにきた。

 
「満タンですか?」
「いや、だめです。入れられなかった。その分払いますね」
「(溜息)」

 
何だか、レンタカー会社の車のやりくりも、相当大変そうである。「貸してもらえるだけマシ」だと思わなければならないのか。

 
外は雨。土砂降りになってきた。僕は暗い気持ちで、家に戻った。兎にも角にも、積み込みをしないといけない。僕はずぶ濡れになりながら、何とか作業を終えた。心配していた積載量問題は、何とかクリアできた。然し、あと一箱でも増えていたら、載りきらなかったところであった。

 
さて、ここから遥々400kmを走ることになる。僕の新居は、Durham(ダーラム)。非常に歴史のある、素晴らしい街である。積み込みに時間を食ってしまい、出発は夕方になってしまった。これから夜を走ることになる。前回のアイラ旅行のときの、ガス欠の悪夢が頭をよぎる。とりあえず、一度満タンにしておかないと。時間がかかるのを承知で、兎に角、近所の、唯一空いていたスタンドの行列に加わった。今度は、事情を知っているので、さくっと並び、遅々として進まない列にもやきもきすることなく、フィッシュ&チップスなどを摘みながら、余裕ぶっこいて、待っていたのだった。時間はかかるが、あとはDurhamまで走るだけなので、別になんてことはない。

 
40分くらい並んで、あと3台、というところまできた。

 
ところが、なんたることか、ここにきて、突然、列が進まなくなった。今までは、交通整理のおっちゃんが、ちゃんと誘導してくれていたのに、突然、仕事をしなくなった。なんだなんだ?紅茶の時間か?

 
しばらくすると、ポリが来た。ポリは、3台前の車のところに行き、何やら話している。順順に話をして、僕のところにポリが来た。

 
「すみませんな。なにやら、コンピューター制御装置が故障したとかで、今日はもうだめらしいですよ」
「はぁ?だめって??それって、もうガソリンを買えないってことですか?」
「そうらしいですなあ。すみませんなあ」
「並んだの、無駄ってこと???」
「そういうことみたいですね。はっは(笑)」

 
泣けてきた。男泣きに泣いた。むせび泣いた。世の中、正直者はバカを見るらしい。

 
愈々もって、事態の深刻さが分かってきた。供給が安定していないので、いつ売り切れるかわからないわけだ。然も、ここはえげれすなので、あっけなく何かが故障するかもしれないわけだ。車を借りに行くときに通った道にあった、さっきは開いていたスタンドが、今見ると、閉まっていたりする。無くなった時点で、即閉店となるわけだ。並んでいても、買えるとは限らない。

 
いろいろ考えたが、矢張り、先に進むことにした。一時は、家に戻って、翌日改めて出発しようかとも思ったが、ここは予定通り、行くことにした。翌日は土曜であり、これから夜がやってくる。この状況で前に進むのは、危険が多いかなとも思ったし、今ならまだ引き返せる状況だったが、まぁ何とかなるだろうと思って、賭けに出ることにした。

 
初めて満タンにできたのは、高速道路のサービスエリアのスタンドであった。ここでも40分くらい並んだが、それでも入れることができた。兎に角これで、何とか、ダーラムまでは行き着けるだろう。

 
ところが、クソ重い荷物たちを満載した我が車は、予想通り、めちゃめちゃ燃費が悪い。見たこともないくらい、やたら速い動きをする燃料計の針に慄きながら、次の給油を考えなくてはならなくなった。どうやら一回の給油だけでは、着きそうにないのだ。

 
幸い、サービスエリアのスタンドは、どこも開いているらしい。然も、24時間営業らしい。ただし、倫敦から離れるにしたがって、夜は閉めるところもでてくると思われた。

 
残量が半分をきったところで、僕は二度目の給油のため、スタンドで列に加わった。ここは、今までのところよりは、ずっと、空いている。待つことには慣れていたので、家から持ってきた麦茶を飲みながら、余裕をこいて待っていると、またしてもポリが登場した。うーむ、嫌な予感。

 
「すみませんなぁ。ここ、緊急車両のみなんですよ」
「げ。いや、僕も緊急なんですがね。。。」
「(残量計をちらと見て)まだ残ってるようですなぁ。ニヤリ」
「は、はぁ。」

 
えげれすのポリは、誠実で、いちいちちゃんとしている。まぁ仕方ないかなと納得し、次のスタンドへ向かう。そんな感じで、スタンド見つけては給油をし、漸く22:30、新居に到着した。そして荷物を部屋に運び込んだ。

 
今回の新居は、前に書いた通り、改修されることになっている。その作業は、

 
「8月末には終わる予定」

 
と、最初に言われた。そして次には、

 
「9月の二週目までには終わるらしい」

 
と言われた。よって、僕は、

 
「まぁ10月までに終われば上出来だろう」

 
と読んでいた。こうした「作業」が、予定通りに終わることは、この国では決してあり得ない。信じたものが、バカを見るのである。決して信じてはならない。ロンドンアイ(観覧車)とか、ミレニアムブリッジ(テムズにかかる橋)とか、そういった、国家的規模の「作業」でも、必ず「何か」が起きて、「予定が伸びる」のがえげれすである。因みに、ロンドンアイの場合は、寝かして製造していた観覧車を、いざ起こすときに、二度だか失敗している。やってみたが、起きなかったらしい。・・・いや、そういうのって、最も根本的なところなんじゃないの?そして今度は、起こしたはいいが、構造上の欠陥が見つかったそうである。・・・いや、寝かしているときに、それはわからなかったの?構造上の欠陥って・・・。そんなわけで、2000年の元旦に予定されていた開業が延期になった。また、ミレニアムブリッジは、人がいっぱい乗ると「揺れる」ことが判明したそうだ。実際に人が乗ってみたら、「揺れた」のだそうだ。それで、現在は、閉鎖中である。

 
分かろうや。最初から。作るときから。

 
どれもこれもそんな感じなので、個人の家の改装作業なんてシロモノは、何が起こっても不思議ではないし、予定通りになど、そもそも、いく筈がない。案の定、この日到着してみて、内部を見てみると、前回のヤサガシ時よりは、いくらか進んではいるらしいが、「終了」には程遠い状態である。因みに、この日は、「9月の二週目の週末」である。ただし、最初から信用もしていないし、また、これは、「第一次ヒッコシ」である。住むわけではなく、倫敦に一旦戻るわけである。なので、作業が終わっていなくても、いっこうに問題はない。ハナから、その辺を見越して予定を組んでいる。

 
はっは。えげれすに住むということは、こういうことなのだ。

 
兎に角、重たい荷物たちを運び込む作業で、僕はくたびれ果ててしまった。ただし、これから一週間、留守にすることになる。工事のおっちゃんたちの出入りもあるだろうし、荷物はちゃんとまとめておいた方がいい。そう思って、わが部屋を見ると、木でできた、重厚な、ワードローブがある。ほほう。良きものがあるじゃないか。荷物の一部をその中に仕舞っておこう。僕は、段ボール以外の荷物をその中に仕舞いこみ、扉を閉めた。しかし、閉めた瞬間、なんだか嫌な音と手ごたえを感じた。

 
カチ

 
「カチ」って何だ?見ると、木製の厚い扉には、なにげに鍵穴が開いている。西洋風の鍵っぽいシロモノである。

 
全てを一瞬で悟った僕は、「体、柔らかくなって、ふにゃふにゃになって、立たれへんようになるくらい」ビネガーをかけたフィッシュ&チップスを喰った人の如く、崩れ落ちてしまった。哀れ、荷物たちは、囚われの身になってしまった。なんで鍵なんかついているんだよ?しかもなんでオートロックなんだよ?

 

契約の時に渡された鍵束を、一応、確認してみたが、えげれす人が、ワードローブの鍵を渡すほどの細かい神経を、持っている筈がない。とにかく大家さんに連絡しなければ。しかし、僕はさらに絶望的なことに気がついた。大家さんの連絡先を書いた紙は、哀れ、ワードローブの中である。

 
嗚呼。えげれすに住むということは、こういうことなのだ。

 
焦ってはならぬ。兎に角落ち着くべし。僕は冷静に、対処方法を考えた。

 
1.鍵穴に何かを突っ込んで、回してみる。
2.合鍵屋に相談する。
3.大学のaccommodationオフィスに、大家さんの連絡先を聞き、鍵の有無を確かめる。

 
1は、無残にも、即、敗退した。2は、ざっと探したが、見つからなかった。また、仮に見つかったとしても、このサービスはなかんかお高いのだ。なので、矢張り、3にすることにした。差し当たり、当面必要なものは、檻の中ではないのが幸いである。

 
アコモオフィスは親切であり、かつ迅速に返事をくれた。僕は後日、大家さんに電話した。大家さんは、何故か、Mr.ではなく、Mrs.Maitlandさんである。ただし電話に出たのは、おっちゃん、つまり旦那さんの方であった。

 
「すみません、奥さんに代わって貰えます?」
「あ、今、いないんですよ。何か伝えましょうか?」
「お願いします。僕は部屋を借りている者ですが、実は問題が起こりまして。部屋にワードローブがあるんですが、鍵がついているのを知らなくて、扉を閉めたら、鍵がかかってしまいました。何とかしてもらえませんか?」
「あらら。それは大変だ。今から行ってあげたいんだけど、今、酒を飲んでしまっていて、車の運転ができないんですよ。明日でも良いかな」
「いや、それはもう。勿論です。で、鍵はありそうですかね?」
「いやぁ、、、無いだろうなぁ。もし、今夜中に必要なものがその中にあるのなら、、、簡単な解決法がある」
「それは・・・?」
「扉をぶち破るのさ(笑)」

 
彼は、なかなかいい人っぽいが、酔っているらしい。話すのは初めてだけど、奥さんの方が、どう考えても、確り者らしい。彼は、

 
「I allow you to smash it. Can you do it?」

 
と、上機嫌で言った。おお。「allow 人 to do」構文じゃないか。いや、そんなことより、それって、どうなのよ?

 
別に急ぐわけでもないし、奥さんに確かめてからの方がいいとも思ったので、有難うと礼を言って、電話を切った。

 
翌日、奥さん登場。事情を説明すると、おやまぁと言って笑いながら、どこかに行った。

 
鍵を探すのかな。それとも、鍵屋に連絡するのかな。もしかしたら、家具専門の、そういう業者がいるのかもなぁ。何にしても、あの旦那よりは合理的な方法をとるに違いない。

 
Mrs.Maitlandは、笑顔で戻ってきた。手にはナイフを持っている。

 
ナイフ・・・?

 
訝しげな表情の僕を尻目に、彼女は、「さぁやりましょう」と言って、ワードローブに近づいた。そして、扉の隙間に、ナイフをガシガシ入れつつ、扉を無理やり引っ張った。

 
バキ

 
かなり派手な音を立てて、扉はぶち破られた。彼女は、

 
「やったわ!(We've done it!)」

 
と嬉しそうに言った。

 
・・・ううむ。えげれすに住むということは、こういうことなのだ。

【旧】えげれす通信_vol44:ヤサガシ (03/09/2000)

季節は流れ、時間は過ぎ去り、僕は今、倫敦にいる。もとい、倫敦を離れようとしている。わたくし、この秋から、倫敦を離れ、地方の大学に移るので、その為の家を探さなければならない。

 
この国で、然も、単身で、棲家を見つけることは、なかなかに困難なことである。この国の住習慣が、日本のそれとは大きく異なるからである。

 
日本では、都市部に行けば行くほど、単身者向けの住居には事欠かなくなる。家賃はかなり高価であり、引越しにかかる費用も莫大なものになることはあっても、「家探し」自体には、それほど困難を伴わない。

 
かたやえげれす。この国では、大変に事欠くのである。この国の住習慣において、単身者が部屋を「借りる」場合、「一軒家にある一部屋を借りて、その他は共有する」というフラットシェア形式が一般的になる。日本のような、「ワンルームマンション」は、まず無いに等しい。そうした物件の絶対数が少ないので、仮に不動産屋に行ったところで、まずそういうのは見つからない。見つかったとしても、恐ろしく家賃が高い。

 
日本は、地震大国、であるが故に、一軒家は木造家屋が多い。木造はもたないし、新築新築、また新築で、建造物自体が出来たばかり、というようなものも多い。日本では、「古い家をぶっこわして、新しい家を建てる」というシーンにも、割りとお目にかかる。しかしながら、一軒家は、空いている間を人に貸すほどの大きさではないので、戦後の「二階借り」や「下宿」みたいなことは、現代ではほとんどない。かたや、集合住宅はバラエティに富んでいるものの、それらの基本は、「玄関入ったら、すべてが揃っている」というものである。トイレ+バス+キッチンは、小さいながらも、完全にそろっている。部屋数や間取りも様々あるので、単身者だったり、ファミリー向けだったりと、広いレンジでの部屋探しが可能になるし、それぞれは「独立した空間」を享受できる。

 
えげれすでは、地震がないので、ちゃっちぃ木造家屋などは殆どないばかりか、何でも、建造物新築は、容易ではないらしい。街の景観を損ねるというので、たとえ自分の土地であっても、むやみやたらに、奇想天外な家屋を建てるわけにはいかないそうである。木造ではないので、もともと壊れにくいばかりか、壊れるような災害もない。つまり、家屋は、ひとたび建てれば、兎に角、いつまでも、ひたすら、どこまでも、なにがなんでも、壊れないのである。日本で言うような、「遂に長年の夢が叶って、家を新築しました」みたいなことは、ほぼ起こりえない。ポールマッカートニーも、ミックジャガーも、やっぱり、出来合いの、使い古しの家を買うのである。

 
家のタイプとして、

 
Georgian(18c-19c)
Victorian(19c-20c)
Edwardian(20c)

 
などがある。しかし逆にいえば、これら3パターンに集約されてしまうということである。えげれす的と言えば、えげれす的。景観は、おかげさまで、保たれまくっているので、どこに行っても、変わり映えしない家が立ち並ぶということになる。

 
日本なら、時代別というよりはむしろ、地域別に、家屋の様式は分類される。「曲がり家」とか「中門造り」とか、更に、「石州瓦」とか「うだつ」とか、地域を代表する特徴がある。その特徴を見ると、旅情が湧くこともある。その土地でしか見られない、家屋のつくりや、屋根の形など。日本では、家のカタチを見ることは、旅の一つの楽しみでもあるのだ。

 
しかし、えげれすでは、どこに行っても、だいたい同じ形の家屋しかない。しかも、新築されない。新築されないということは、よく言えば、街の景観が保たれるということであるが、悪く言えば、街がいっこうに進化しない、ということである。どちらが良いのか、悪いのか。難しい問題ではある。ただし、単身者の引っ越しということになると、いつまでたっても、近代的で独立した「個室」があるマンションが建つことはほぼ考えられない。結局、古い、代り映えしない、でかい家の、それぞれの部屋を借りて、キッチン+バス+トイレは共有する、ということになる。この「フラット」が、えげえすにおける、単身者の、一般の住環境なのだ。勿論、今の家も、そういうことである。オオヤとそれらを共有しているわけなので、ああいうことも起こるのである。

 
閑話休題

 
さて、この度、新たな街に家探しに行ってきた。倫敦は、矢張り何かと便利である。日系不動産屋もあるし、日系コミュニティ誌の広告もあるので、気長に探せば必ず適切なフラットは見つかる。何より、お互い日本語ということで、契約の様々な問題に関するリスクがかなり軽減されるのだ。然し、今回は、田舎町であり、日系不動産屋はおろか、そんな新聞もない。日系スーパーもない。日系本屋もない。日系カラオケ屋もない。刺身も買えないし、日本酒も買えない。嗚呼、僕はどうしたらよいの。

 
そんな不安に抱かれながら、僕のヤサガシ旅は始まった。

 
実際、倫敦に暮らしていると、さっぱりえげれすを感じることがなかったりする。なんなら、英語を話さないでも、暮らしていける。最近は特に、家に篭って仕事しているので、ほとんど英語を使っていない。しかるに今回のヤサガシでは、英語でガンガン交渉をしなければならない。なかなかの緊張感である。一応手元には、大学から貰った物件リストがある。交渉相手は勿論、全て、ガイジンである。

 
僕は行く前には、多少、楽観視していた。というのも、去年の今頃、倫敦ではないところでヤサガシをしなければならなかった友人につきあった経験があった。その時は、あれやこれやかなり色々対策を考えて、その地に乗り込んだのだったが、実際には、あっけなく決まったのである。駅を降りて、二三分歩いたところに、ケバブ屋があった。そのケバブ屋にはフラットメイト募集の、しかも日本語の張り紙があった。試しに電話をしてみたところ、話はどんどん進み、実に実にあっけなく、部屋が決まってしまったのである。僕も友人も、実際のところは、ヤサガシの経験はそれが初めてであった。不安も大きかったのだが、決まるときには決まるんだな。あまりにあっけなかったので、拍子抜けしてしまった。部屋は綺麗だし、駅から歩いてすぐだし、いくら地方都市だとしても、条件は抜群ではないか。銀座で言えばSANAI、大阪で言えば阪急梅田、そんな絶妙の場所にあるフラットが、信じられない値段で見つかった。なんてこった。・・・尤も、銀座四丁目にも梅田新道にも、ケバブ屋が出店しているとは思えないので、街の規模は推して知るべし、というところだけど。

 
去年のこの経験があったし、さらにその翌日、今度は僕自身の物件を倫敦で探したのだが、その時も、安藤おやぢのお蔭で、今の家をさくっと見つけることが出来たので、今回も、結局は大丈夫なのではないかと思ってはいたんだけど。

 
さて、目指す町に到着した。ここは、最初にえげれす留学を考えたときに、最初に思い浮かんだところである。紆余曲折を経て、倫敦での二年の歳月を経て、結局はここに落ち着くことになったという感慨もある。旅行でも数回来たことがあるので、街の雰囲気も知っており、申し分なく気に入っている。川が蛇行し、そこにそびえる古城。えげれすを代表する聖堂。歴史的な町並み。

 
うむ。
ええぞ。
ここで暮らすのか。

 
僕は、駅を降りて、まずはケバブ屋を探した。・・・ではなくて、街中の掲示板などを探した。・・・が、ない。駅前に中華屋ならあったけど、そういう問題ではない。とりあえず、宿を取って、翌日から、行動を開始した。

 
大学からもらったリストの住所を見て、地図で大体の場所を把握する。倫敦と違って、遥かに遥かに、規模がちっこいこの街では、少し歩けば、既に、奴らが草を食っている。倫敦だと、せめて電車で20分は進まないといない奴らが、徒歩圏内に、いる。田舎、よいぞ。

 
どうせ田舎暮らしをするなら、似非田舎ではなく、マジ田舎の暮らしを満喫したいと思った。幸い今年からは、コースワークが無いので、大学に「通う」機会はそれほどないはずである。そもそも今だって、大学までは、片道1時間弱かかる。かたや、このちっこい街で、1時間分も離れてしまったら・・・、いや、奴らがいるだけで、大して景色は変わらないか。

 
「えげれす田舎」についての僕のイメージは、

 
・一面の草原
・一面の羊
・隣家まであるいて10分はかかる
・夜はランプの生活
・6月はラベンダーが咲く
・自力で温泉を掘る
・家が火事になる
・娘が不倫する
・息子は東京から失意のうちに戻ってくる
・草太にぃちゃんが死ぬ

 
途中から妙な方向にずれたが、とにかく、アレと被る。ただ、自力で水の確保をしなければならないようなところは勘弁なので、適度に文明の香りはしてくれないと困る。なので、地図上で、兎に角遠くて、兎に角荒れ地っぽくて、兎に角寂れていそうな雰囲気の物件から順に、電話することにした。

 
最初にかけたところは、大学まで6マイル!の家である。説明文には、

 
「1987年から学生を何人も住まわせているが、その誰もが愛してやまなかった」

 
おうおう。オレも愛させてもらおうやないか。然し、愛する前に、相手に逃げられてしまったらしい。おばちゃん曰く、「ごめんなさいねぇ。借り手がついてしまったの」。僕にとって初めての電話で、相当緊張していたのだが、あまりにもラブリーな対応に、僕は、そのおばちゃんを愛しそうになった。えげれすのおばちゃんは、総じてラブリーだが、田舎のおばちゃんは、さらに倍、な感じで、感じがよい。いやはや、残念。見たところ、ここが一番遠く、キタキツネもいそうな、アレ被りっぽい土地だったので、僕の大きな期待がしぼんでしまった。

 
気を取り直して、次にかけると、出てきたのはまたもやまたおばちゃんである。連絡先リストの宛名には、当然のことながら、Mr.、Mrs.、Miss、の三パターンあるわけだが、それは昼間だったので、Mr.のところは仕事中なのか、出てくれない。夜にしてくれと書いてあるところもある。Missも、それに近いものがある。然し、Mrs.は、昼間でも家にいるのかどうかわからないけど、大抵電話が繋がるのであった。その人も、とっても親切で、愛想が抜群にいい。僕の緊張は、次第にほどけていった。

 

「この物件、まだ空いてますか?」
「ええ、あるわよ」
「見に行けますか?」
「私は都合が悪いんだけど、代わりにうちの息子を夕方にやるわ」
「ありがとう。では夕方に」

 
このおばちゃんは、とっても愛想がいい上に、親切である。物件の説明を、延々としてくれる。

 
「とっても素敵な眺めで、」
「はぁ」
「聖堂が正面に見えるのよ」
「はぁ」
「奥まってるから、とても静かだし、」
「はぁ」
「今改装したばかりだから、とても綺麗よ」
「はぁ」
「広いリビングと、」
「はぁ」
「広い部屋と、」
「はぁ」
「広いキッチン」
「はぁ」
「テレビもあるし」
「はぁ」
ミュージックステーションもあるわ」
「(なんじゃ、そら?)はぁ」
「庭も綺麗よ」
「はぁ」
「車も止められるわ。車は持ってる?」
「いや、持ってないです」
「それは良かったわね(笑)」
「そうですね(笑)」
「この街の駐車状況は、とっても大変なのよ」

 
そう言って、彼女は、terribleを連発した。しかし、兎にも角にも、とりあえず一軒を見ることが出来そうなので、最低でも家はゲットできそうだ。ニンゲンやはり、住居が決まらないと、気持ちが落ち着かぬ。

 
次は、初めてかけたMr.。彼の名前は、なんと、Mr.Chickenという。場所を見ると、なかなか離れていて、地図で見ると、周りは、荒れ地っぽい。電話してみると、何だかとっても「田舎のおっちゃん」っぽいおっちゃんである。どもりがちにしゃべる上に、アクセントも洗練されていない。

 
ビバリーヒルズ青春白書」のドナ役をやっている女優は、トリ・スペリングという。彼女がここに嫁に来たら、

 
トリ・Chicken

 
になるんだな。さらに、彼女が日本でヒット曲を飛ばし、和田アキ子とか石川さゆりとか、その辺を越える歌手になった暁には、紅白の最後に、

 
「今年のトリは、トリ・チキンです!」

 
ということになるのだろうか。しかし、それはおいといて、このチキン氏、さっぱりしゃべりがわからない。この辺りは、えげれすでも有数の、特殊アクセントの地域である。それと共に、文化的にも特殊性があるところである。その辺りも含めて、僕としては気に入っている。幸か不幸か、これまで電話したおばちゃんのアクセントは、かなり洗練されている。恐らく、ミドルクラスなのであろう。然るに、このチキン氏は、わからんわからん。

 
とりあえず、翌日14:00に、見せてもらう約束は取り付けたので、これで二軒、確保できたことになる。僕はこの辺りから、余裕が出てきた。少し時間があるので、チキン氏の物件を見に行ってみることにした。バスに乗って、地図を睨みながら、大体の見当をつけて降りようとしたのだが、何と、実は、電話した場所から5分くらいのところであった。ううむ、流石に5分では、奴らもいない。そして、目的の家は、イメージとは違っていた。なんだか、中途半端な感じである。はっきりいって、外観はそれほど良くは無い。若干がっかりして、中心部に戻り、延々説明してくれたおばちゃんの息子氏の案内のもと、初の実地検分を行う。

 
ここは、申し分なくいい場所で、実に実に、景色がよい。おばちゃんはひょっとして、大阪のおばちゃんのように話をデカ盛りにしているのではないかと、あの機関銃トークをみて、疑ってかかっていたのだが、こいつは本物だ。

 
「うちはむっちゃ景色ええで。川もあって自然もいっぱいあるし」
「はぁ」
「お隣さんも気さくやし」
「はぁ」
「夜とかお腹すいても大丈夫」
「はぁ」

 
とか言われて、いざ見に行くと、

 
「目の前は大和川やないか」
「隣って、それ、レゲエのおっちゃんやん」
カップヌードルの自販機・・・これかい!」

 
くらいかと疑っていたが、このおばちゃんは、真実を述べていたらしい。おばちゃん、スマヌ。・・・ふと、見ると、古ぼけたラジカセがある。

 
ミュージックステーション?!」

 
まぁ、ときにはボケもかますらしい。然し、いかんせん、部屋が4つある中で、条件のいい2つの部屋が既に塞がっており、残りの2つには、ちと難がある。僕は、いったん保留することにした。

 
街の中心に戻って、残りの物件に電話をかけまくる。どうも、結構な勢いで埋まっていってるらしいのだ。大学のAccommodation Officeにある物件でも、既に埋まってしまっているものが多い。かなり問い合わせが集中しているらしいので、早め早めに行動しなければならない。

 
あるMissサンにかけたら、

 
「あなた、reference letterはもらえる?」

 
と聞かれた。この国では、信用のおける人間からの紹介状は、何をするにも結構重要である。『日の名残り』でも読んだことあるぞ。しかし、家探しで、これを言われたのは初めてである。オレは執事じゃないぞ。タダの学生だぞ。

 
「それは必要なんですか?」
「この国では当然のことよ」

 
お前はサラか!(Vol.0.9参照)。だからこの国のMissサンは、おっかないのよ。なんで若い女性は、こうも、ツッケンドンなんだろう?どこの境目で、あのラブリーなおばちゃんになるんだろう?かなわんかなわん。

 
さて翌日、アポイントを取っていた一軒を見に行く。ここは、今もって尚改装中であり、しかし作業は、遅々として、進んでいないらしい。電話では、このおばちゃんは、せかせかとしゃべっており、あまり良い印象ではなかった。然し、会って見ると、なかなか感じのいい綺麗な人である。子供を連れてきている。何でも、人に貸すのは初めてらしく、自分でも戸惑っているらしい。ふーむ、慣れきっている人よりは、良いではないか。

 
「本当は、8月末で改装が終わる予定だったの」
「そうですか」
「今、大工さんたちが、ホリデーでいないの」
「(ううむ、えげれす。。。)はぁ、なるほど」
「来週末には終わると言っているんだけど」
「(絶対無理やろ)そうですか」
「ここも、あそこも、まだ汚いけれど、全部壁は塗り替えるし、」
「塗り替えたところは綺麗ですね」
「そうなの。全てこの感じになると思うわ」
「(「If」がそのままいかないのがえげれす)良いですね」

 
壁を塗り替え、家具を入れ替え、台所を新装し、床の絨毯も新調すると言う。確かに、改装前は、相当汚いのだが、新装された個所の調子を見る限り、これが完遂すれば、かなり生まれ変わると思われる。

 
「古い家なのよ」
「そのようですね」
「60年代ですからね。。。」
「それは古い!」

 
と、僕は、一瞬、この国にいることを忘れて、言った。「40年」ってことは、まずまず古い、、、と思ってしまったのだ。ところが、

 
「・・・そうでしょ。1860年代ですからねぇ」

 
彼女が、「エイティーン」と言った刹那、僕はのけぞってしまった。

 
「せ、せんはっぴゃく?」
「そうなの」

 
考えたら、この国では、100年やそこらでは、家が壊れたりしないのである。アタマではわかっていることだが、実際体験するのとでは大違いだ。

 
明治維新。。。

 
他の家も、聞けばあるいはそういうところも珍しくないのかもしれないが、僕は、今回のヤサガシのテーマに、

 
「何か、とことん」

 
というのを置いていたので、この古さは気に入った。

 
「とことん、羊」
「とことん、田舎」
「とことん、邦衛」

 
の夢は潰えたけれども、なんだか、一寸、良いではないか。実際、この場所は、駅から歩いて数分の「ケバブ距離」なので、「田舎住まい」とは程遠くなってしまう。しかし、実際のところは、この街自体が田舎なので、辻褄はあっている。それと、もう一つ気に入ったのは、階下に唯一ある部屋に、まだ借り手がついていなかったということ。この部屋は、嘗てのリビングらしく、とてつもなく広い。他の4つの部屋は全て階上にあるのだが、これだけ階下にあって、キッチンも近い。ということは、他の住人を気にしなくてもよいということになる。僕は、今の棲家での経験から、部屋が台所に近いというのが、かなり重要なポイントだということを知っている。また、何より、大家のおばちゃんが、とっても良い人っぽい。まあ、こればかりは、後にどうなるかわからないのは、これまた今の経験が教えていることだけれども(苦笑)。然し、今回は、大家が同居しないということなので、まぁ、大丈夫でしょう。そういうわけで、僕はここに、かなり良い印象を持った。

 
さて、先述のトリ家である。約束の時間に待ち合わせ場所に行ってみると、トリ氏が現れない。僕はその後にも約束があったので、あまり待ってはいられない。申し訳ないけど、そのまま帰ってきてしまった。まぁ、中を見ないとわからないとはいえ、先程の部屋が良かったので、興味関心も急速にしぼんでいった。

 
というわけで、無事、契約を済ませることが出来た。僕にとっては、かなりしんどかったけれど、逆に、いい経験になったと思う。自力で成し遂げた感がある。然も、こんなに英語をしゃべるのも久しぶりである。半年分くらい、一気にしゃべったかもしれん。

 
さて、家が決まれば、次は街を知る必要がある。特に、店が早く閉まるえげれすでは、買い物のシミュレーションをしておく必要がある。街中にある、大体の店の配置と営業時間を把握したけれども、僕にとっての死活問題は、依然、未決である。そう。刺身&日本酒だ。

 
倫敦まで週一回、買出しにいくか?そうすると、週8000円の交通費か。でも、日本で飲みに行くことを考えたら、そんな値段で済むなら行ってもいいかな。然し、そこに海があるのに、何で魚が売ってないねん。・・・おっと、この問いは、これまで何百回と、自問自答してきた奴だ。一説によると、スーパーのデリカテッセンで売っている魚は、生食をしても多分大丈夫らしいという噂があるけど、しゃぁないから、試してみるかな。ぶつぶつ。

 
列車で17分のところに、この地方最大の街がある。この街は、半端じゃなく、えげれすでも指折りの、正真正銘の大都市、地下鉄もある。僕は、家も決まったことだし、そこに行って、買い物情報を仕入れることにした。

 
中華街があるのは知っていたので、直行する。そこそこでかく、中華スーパーもある。入ってみると、倫敦と比べても、あまり遜色のないくらいの規模である。ということは、日系食材は、結構手に入るということ。日本酒も、かなり少ないが、おいてある。というか、日本酒に関しては、多分何とかしようがある。・・・然し、刺身はない。こっちのほうが、大問題なのだ。冷凍のコーナーに行くと、トリ貝があった。これは!と思って、店内にあった広告を見ると、「刺身」と書いてある。おお。少なくとも、トリ貝の刺身は食えるということか。さらに、烏賊の冷凍もある。こちらには「刺身」の文字はないが、試してみる価値はありそう。僕は嬉しくなってきた。

 
Marks&Spencerという、えげれす国内にはどこにでもある大手スーパーがある。ここは、全て自社ブランドで固めている特殊な店であり、値段も若干高めだ。一応「高級」とされている店である。ここのOrganicコーナーにある、サーモンの切り身がオレを呼んでいる。

 
「Orkney産の厳選サーモンを、船上冷凍してお届けしています」

 
ううむ。何ともいい感じでオレに語りかけてくる。これは試してみるしかないだろう。その裏側には、

 
「この製品は、必ず火を通して食するべし」

 
という注意書きがあったが、それは無視することにした。

 
「所詮は、刺身文化を理解してない輩の申すこと」

 
僕はそう解釈することにして、買って帰り、宿で早速食べてみた。思ったとおり、新鮮は新鮮なようである。そして、味も、、、申し分ない。僕は、感涙にむせび泣いた。男泣きに泣いた。くぅ。

 
最低限の、食物補給路は保たれたわけで、僕の生命維持装置は、何とか稼動を続けられそうである。次回は恐らく、具体的な町の名前が出るでしょう。その前に、「さらば倫敦」のネタになるかも。

【旧】えげれす通信_vol43:旅と居住 (27/08/2000)

刑事モノドラマを見ていて、よく登場するのが、

 
「住所不定無職」

 
という設定である。これは、実に、言い得て妙な文句ですな。というのは、「旅」と「居住」の違いは何ぞやと考えるとき、この二つの条件、つまり、「棲家」と「所属」というのはかなり大きな意味を持つのである。「長期間の旅行」と、「居住」との違い。簡単に言えば、

 
「ご旅行ですか?」

 
と、問われたときに、

 
「はぁ、旅しております」

 
と答えるのか、


「いえ、住んどります」

 
と、答えるのか。これは、突き詰めて考えてみるに、なかなか面白い問題ではないか。そして、これを決定するのは、先にあげた、二つのポイント、つまり、棲家と所属なのではないか。

 
「ホテル住まい」と、短期であれ「フラットを借りている人間」とでは、これは自ずと、意識も違ってくるだろう。そして、「学校」乃至「大学」に所属しているとなると、これはすなわち、

 
「オレはこの街におるべくしておるのだ」


というような実感というか、帰属意識のようなものが、が本人に湧いてくるのではないか。

 
然し、次に考えたいのは、「住んでいる」とは、一体如何なることであるのか?

 
我々は、ニッポン人である。ということは、えげれすは「異国」なわけである。なにゆえに、異国暮らしを選んだのか。さらに、なにゆえに、えげれす暮らしを選んだのか。それは各人それぞれ色々な背景があるのだろうけれども、「異国」、あるいは「えげれす」というものに、何らかの関心を持っていたからだということは仮定できるだろう。その興味の持ち方や関心の方向性は、人それぞれであろうけれども。

 
言うまでもなく、僕がこちらで知り合った人間は、こちらに「居住」しており、こちらの何かしらの機関に「所属」している。そして、恐らく、「えげれす」に興味を抱いて、ここまでやってきた人々なのである。

 
その彼ら、だが、その多くが、今年の秋に、えげれすを引き上げてしまう。

 
異国に留学するということは、非常に、色々な意味で、覚悟を要する。その「覚悟」あるいは「期するところ」というのは、各人でそれぞれ違ってはいるけれども。

 
最初にこの地に降り立った時、我々は、それぞれの志は異なれど、「留学」という同じラインに立っていた。最初の一歩においては、同様の知識と、同様の経験値を得ていた。しかし、二年の月日が経つと、もともと潜在的にはあったそれぞれの方向性や関心の違いが、次第に顕れてくる。それは当たり前のことなんだけれども、かつて同じラインを踏んでいた「同僚」としてそれを眺めてみると、ある意味、興味深い差異に映る。

 
ある者は、倫敦に関して誰よりも精通するようになった。通りの名前を言っただけで、大体の見当が付く位。ローカルな地名、あるいはチューブの駅名を言っただけで、大体そのエリアの雰囲気を答えらえる。

 
ある者は、芸能関係に精通するようになった。本日どこで何のパフォーマンスがあるとか、どんな劇団がどこそこの劇場で公演するとか、そういった情報を完璧に押さえていたりする。

 
ある者は、気の向くままにあちこち出向き、特定の得意分野は持たないが、満遍なくイングランドについて知っている。

 
ある者は、出歩くことを遂にそれほどせず、自分の日常の領域のみを押さえることによって、十分に満足していたりする。

 
それぞれ、系統はかなり細かく分かれるのだが、見事なまでに、個人の方向性あるいは関心事というものは、二年も過ぎると、分かれてしまうものなのであるなと、僕はある意味感心するのである。

 
みんな、それぞれ、「自分は手を伸ばさない方面」の事柄に関して、機会さえあれば手を伸ばしてもよいというような、ある種の興味と義務感みたいなものは、実はもっていたりもする。だから、機会ある度に、「伸ばさない方面に詳しい友人」に対して、「誘ってくれ」と頼んだりもする。ただし、最後は、自らの情熱があるかどうか。結局のところは、自分の燃えることにしか、手を伸ばさない。まあ、ある意味、当然至極のことかもしれない。

 
もしこれが「旅」ならばどうか。「旅」という名目で滞在しており、たとえそれが長期の「旅」であったとしても、あくまでも「旅」というカテゴリーに分類される滞在ならば、意気込みは違ってくるのではないか。「旅」には、「限定された自由」が付きまとう。各人が意識するとしないとに関わらず、「旅」には「期限」がつきまとう。まあ、期間を限定しない「旅」もあるのだが。しかし、「居住」となると、「限定されない自由」があり、意識の上では、「期限の束縛」から解放されるのではないか。荷物をもって移動するのかどうかでも、意識の上で、差は出てくるのではないか。

 
自分は「居住」しているのだと、自ら思ってしまうと、その瞬間からこの地は、「非日常なもの」ではなく、「日常のもの」になる。「旅」の途中では、「効率よく」とか「網羅的に」とか「もったいないから」「義務感」とか、そうした心持で、名所旧跡や観光名所等を廻ってしまう。それはやはり、「腰を落ち着けていない何か」つまり「非日常感」が、その根底にあるからではないだろいうか。

 
「えげれす」という異国に暮らそうとも、「旅先」ではなく「居住地」として、「日常の一部」としてみなしている我々が、満遍なく、名所のあれやこれやに、ガツガツと訪問しなくなる、代わりに、自分の関心事だけに的を絞っていく、という傾向は、もしかしたら、当然の成り行きなのかもしれない。我々は、もはや、「えげれす生活」というものに、エキゾチックさを感じなくなっているのかもしれない。

 
それぞれが、独自の方向性を研ぎ澄ましつつある中で、僕の方向性はといえば、地の利を生かした「旅の可能性」である。それは日本時代から変わってはいない。仙台にいるときは、まだ若くて、財力も足もなかったから、それほど地の利は生かせなかった。大阪時代は、十二分に、その地理的条件を生かした旅をしてきた。僕にとっては、今は、それと何ら変わりがない。旅にふらりと出かける頻度も、通常の人から見たら、信じられないくらい多いのかもしれないけれど、実は、大阪時代と、さほど変わりはない。移動距離も、変わらない。ヨーロッパは、かなり狭いのである。大阪-仙台の900kmをこの地で走ったら、一体どれだけの国境を越えることになるのか。しみじみ、日本というのは、細長い国だと思う。

 
結局、この地で僕がやっていることは、昔と何ら、変わらない。えげれすだからと言っても、所詮、落ち着くところに落ち着いたといえるか。やりたいことをして、やりたくないことはしない。そして、これはやはり、留学している連中も、二年越しで見ていると、同じなのだなと実感する。「旅」という、非日常な世界ではなく、「居住」という日常的な世界にどっぷりと落ち着いた彼らは、それぞれの地金を徐々に曝し、彼らの日常の通りに、やりたいことをして、やりたくないことはしてない。

 
おもしろいね。
いや、ネタとしては、おもんないね。

【旧】えげれす通信_vol42:アイラ (19/08/2000)

僕がハマっているものはいくつかあるのだが、いくつかは、持続的にハマりまくり、いくつかは、一時的な熱病のように、関心が去っていく。

 
例えば、一時期、数の子にハマったことがある。普通の人は、正月とか、結婚式とか、何か特別な日にしかお目にかからないこのシロモノを、一週間と言わず、恐らく一か月以上、食べ続けたことがある。コレステロールだの、塩分だの、そんなことはお構いなしで、延々食べ続けた。

 
大阪時代、自宅の傍にあった中華料理屋では、学部時代の4年間、ほぼ毎回、「あげそば(大)」を喰い続けた。うちのサークルの先輩が皆に紹介したこの一品は、どこのあげそばよりも旨く、本場の長崎よりも旨いのではないかと思えるほどだった。

 
先輩曰く、

 
「あんかけが染みとおって、ふにゃふにゃしなった辺りが旨いのんや」

 
4年も喰い続けていると、食べ方の「作法」が確立してくる。最初に、麺を箸でバキバキに割る。ここの中華屋は、よく不味い中華屋がそうであるような、回毎の味のばらつきが少ないので、あんかけの味が違ったり、粘度が異なったりすることは少ない。なので、バキバキにすると、毎回、安定した「好きな感じ」に落ち着き、麺がしんなりする。ただし、最初に少しだけ、麺のバキバキ感も味わう。

 
僕がハマるものは、必ずしも「食」のみではなく、多岐に渡っている。割と持続的に好きなものに、

 
「島」
「果て」
「悪路」
ケルト

 
などがある。例えば「島好き」には、小学校二年生から続く、壮大なるストーリーがある。これはあまりに壮大すぎるので、今回は省く。例えば「果て」に関しては、「通信vol.04」にも書いた通りである。ちなみに「果て好き」であって、「果てるのが好き」ではない。あしからず。「悪路」については、日本で車を所有していた時には、日本の有名な悪路は、結構制覇している。道幅狭い系、未舗装系、その他キワモノ系道路などなど、まあ、マニアと言っても良いかもしれない。「ケルト」は、えげれす先住民族ケルト人の遺した文化一般のことであり、ケルティッククロスとか、ケルティックデザインとかが有名である。えげれす人、特にスコットランド人は、何でもかんでも、むやみやたらと「Celtic」という枕詞をつけるのが好きだと言われる。ちなみに発音は「セルティック」という。

 
ここ最近の「ハマり」に、「ウィスキー蒸留所」が加わった。

 
前回の「蒸留所紀行」(通信vol.37)で触れたが、そもそもは、モルトウィスキーに対する造詣が深いわけでもなかったし、持続的な関心を抱いていたわけでもなかった。ただただ、酒好きの観点から、または、地域の文化に対する興味から、たまたま観に行ったに過ぎない。

 
人間の嗜好というのは、環境要因に左右されるらしく、僕の酒の嗜好は、こちらに来てから大きく変わった。日本にいる時にはそうでもなかった「日本酒」が、現在では、最上位にくるようになった。手に入らないと思うと、欲しくなる。人間、なくなってみると、そのものの良さを痛感する。和食、温泉、日本酒・・・、もともと、当然好きではあったものの、だからといって執着しまくっていたかと言えば、必ずしもそういうわけではなかったこれらのものが、今では一番恋しい。現在の境遇で、何の酒が飲みたいかと問われれば、何をおいても「日本酒」と答えるだろう。したがって、モルトは、別にハマっているわけではない。

 
今回は、ISLAY島へ行ってきた。ISLAY島(アイラ島)のモルトは独特で、その筋には有名なところである。今回の旅の「行先」に関しては、それを選んだ理由はあくまでも、上の四つ、「島」「果て」「悪路」「ケルト」であって、「モルト」が主というわけではなかった。しかし、行くからには、蒸留所見学はマストである。そして、旅を終えてみると、僕の「ハマりリスト」には、「モルト」「蒸留所」が加わることになった。

 
かつて、SKYE島へは行ったことはあるが、この島は橋で繋がっているので、純粋な島とは呼べないかもしれない。船で行かねば渡れない、文字通りの「島」への旅は、今回が初めてである。

 
グラスゴーまで飛行機で飛び、空港で、MICRA(日産マーチ)の緑を借りる。

 
ん?
偶然の一致が過ぎやしないか??

 
前回の「蒸留所紀行」(通信vol.37)の時もマイクラだったし、「ディーゼルエンジン事件」(通信vol.36)の時も緑だった。おまけに、先月、エジンバラに行ったとき、友人が借りた車も緑だ。「スコットランド」「マイクラ」「緑」と三拍子揃えば、過去のアレヤコレヤの記憶が蘇る。

 
何かの意思が働いているのか?
また何か、起こす気か?
陰謀か?しかし、誰の?

 
MICRAは、走る。実際、いい車だ。快調に、すいすい走る。燃費も良い。良すぎて、ついつい、ガスの残量を気にしなくなってしまう。

 
島へ渡るフェリー乗り場の、Kennacraigに到着した。話には聞いていたけど、乗り場以外、本当に何にもないところである。何もないのに、地名がある。この地名の「Kennacraig」というのは、何からとったのか?えげれすの田舎を走っていると、地名の不思議を感じることがしばしばある。僅か数軒の家しかないようなところでも、必ず、集落名や村名が付いている。そして、さらに興味深いのは、集落であろうと村であろうと、その「始まり」と「終わり」に、必ず、標識がある。「居住地区」と「そうでないところ」が区別されている。たとえ、それが、僅か数軒の村落であっても。

 
欧州の都市のほとんどがそうであるように、えげれすでも、城壁で囲まれた都市は多い。中世から始まる都市は、大抵、城壁が未だに残り、その多くは、環状道路となって機能している。その昔は、教会を中心に居住区が形成され、城壁の外は、人間がうろつく所ではなかった。そうして、「町」と「そうでない所」は区別される。例えば、町の端に位置することが多かった「パブ」に、「World's End」という名前が多いのは、そのためである。

 
さて、そんな何もないフェリーターミナルで過ごすこと半時間。その間には、もぎりのおっちゃんが現れたりする。彼は、「青汁」CMの、「うーー。不味い。もう一杯!」でおなじみ、悪役商会八名信夫に似ていた。彼は、素晴らしく低音の声で、「チケット拝見」と言う。もぎりをさせておくのには勿体無いような美声である。

 
フェリーは快調に飛ばし、2時間ほどで、ISLAY島に到着した。とりあえず、今日中の蒸留所見学は無理なので、兎に角、島の中心地「Bowmore」に行こうと思った。

 
ところで、ここで一人、同行者が増えた。フェリーの中で知り合った、Fくん(仮名)は、大阪出身のワカモノであり、今の仕事をやめてバーテンになるべく、蒸留所めぐりをしにきたのだそうだ。なかなか殊勝な心掛けではないか。島内は足が不便なのだが、彼はバスで周るつもりだという。それは大変そうなので、とりあえず、Bowmoreの町まで乗せていくことにした。彼は、物静かなワカモノなのだが、めちゃめちゃ大阪人なので、こちらも、影響される。また、顔立ちが、Mという、大阪の堺出身の、僕の後輩(男)に似ている。

 
このMに似ている人間に出会うのは、Fくんで既に3人目である。

 
一人目は、去年のコースの同級生(泰人・女)であった。いくら目をこすって見ても、翌日改めて見直しても、横顔を見ても斜めから見ても、どこからどう見たってMなのである。性別は違えど、そこはそれ、泰なので、もしかしたら本人なのではないか、という疑念も湧く。しかし、日本に帰国して、大阪での飲み会でM本人を追及すると、

 
「まだ見ぬ、異国の地に暮らす腹違いの妹ですよ」

 
と言って、兄貴としての情愛を切々と語ってくれた。・・・いや、待てよ。「兄貴」じゃなくて、「アニキ」なのでは?

 
二人目は、うちの近くの美容院に貼ってあるポスターである。この被写体は、そもそも、どこの国の人なのか、そして、オトコなのかオンナなのか、まったく判然としない風情なのだが、そういったところを超越して、めちゃめちゃそっくりなのである。僕は、Mはこんな仕事もしていたのかと、本人に問い合わせたけれども、このときには、Mのコメントはなかった。まだ見ぬ兄弟が多すぎて、当人もたじろいだか?

 
そして、今回である。Fくんは、大阪の平野区の人である。まだ見ぬ兄弟も三人目となると、Mの異母も、だんだんと堺に近づいてきたな。泰→倫敦→平野。なかなかにワールドワイドではないか。そして、とにかく、濃い顔立ちなのだ。なかなか男前でもある。

 
Bowmoreの町は、混雑していた。島で一番でかい町とはいえ、元々がちっこい島である。着いたのは、それほど遅い時間ではなかったけれども、「i」で頼んだ宿泊予約は、全敗であった。焦ったが、自力で各所に聞きまくり、漸く一軒のホテルを取ることができた。旅は道連れ、Fくんも同じ宿に落ち着く。

 
ここのホテルの管理人(?)のピーターは、いつも口笛を吹いている、陽気なおっちゃんである。ローリングストーンズのミックジャガーに似てる。

 
先月、友人とスコットランドを回ったとき、エジンバラで宿が見つからず、困り果てて、ある一軒のB&Bに入ったところ、そこのおっちゃんが親切に、他を紹介してくれたことがあった。彼は、親切に地図を書いたりしてくれたが、その後で、僕のTシャツを指差し、握手をしてきた。僕が着ていたのは、ローリングストーンズのベロTである。おっちゃんも、RSのTシャツを着ている。矢張りこの国では、RSは根強い人気がある。

 
ピーターは、顔が似ているだけに、絶対、RSファンに違いない。もし、世間話する機会があったら、

 
「元奥さんが、この前、舞台でヌードになったねぇ?」

 
とか、

 
「赤ん坊、元気?」

 
とか、弄り倒そうと思っていたのだが、僕はこの時、朝飯を抜いたので、遂に機会はなかった。残念。

 
さて、島には、8つの蒸留所がある。ArdbegBowmore、Bruichladdich、Bunnahabhain、Caolila、Lagavulin、Laphroaig、Portellen、の8つのモルトは、総称して「アイラモルト」と呼ばれ、スモーキーな独特な味わいを持つことで有名である。そのうち、BruichladdichとPortellenの二つは、現在は閉鎖されており、操業を続けているのは6つだという。

 
時間が時間なので、とりあえず、閉まっているBruichladdichを見に行った。香りが高く、僕の好きなモルトの一つである。然し、内部は、閉鎖されて3年が経ち、その時の流れを確実に感じさせる廃墟と化していた。人間がいないと、朽ち行くのは早い。

 
その後、島の先っぽの町、Portnahavenに行った。ここは、島の西に突き出た半島の南西端にあたる。先っぽには灯台があり、町は結構でかい。

 
日本でも思うことだけれども、人間ってのは、つくづく凄いと思う。何故に、こんな果ての地に、棲家を設けるのか。何か必然性があったのか。海はあるけれど、然し、海以外、資源は乏しい。歴史はあるだろうし、それは色々語るところがあるのだろうけど、僕は、もっと単純に、こうした「果て」の地に住んでいるというその事実だけに感動を覚える。

 
例えば、南太平洋の多くの島々には多種多様な人種が住んでおり、そのルーツには謎が多いけれど、兎にも角にも、「人が住んで」いるのである。それも、脈々と、時代を超えて。周りは太平洋。海産資源は豊富すぎるだろうと考えるのは、我々の浅はかさである。実際には、多くの島では、大規模な港湾設備や流通設備が未不備であり、豊富すぎる解散資源を存分に活用できる状況にはない。彼らは大海原を相手に、実に細々とした漁を行っている。勿論それは、現代の、例えば日本の状況と比較してのことだけれど、それぞれの時代に、それぞれの困難はあった筈で、それは、多分に、厳しい自然との戦いであっただろう。例えば、グリーンランドなんかにも、かなり昔から人は住んでいる。しかし、なぜ、あんな厳しい環境に、わざわざ?もうそれだけで、僕は感動してしまう。

 
「果て」には、そうしたロマンがある。想像力が逞しくなるのが、いつもの僕のパターンなのだが、このアイラの「果て」も、そうしたことを考えさせてくれるのに十分な風景であった。ただし、町自体は、結構でかい。どうして、こんなところに、まずまず大きい集落が形成されたのか。謎は深まる、興味も深まる。

 
帰り道、相変わらず、どこにでもいて、どこででも喰っている奴らを見ながら、そしてまた、もはや「どこもかしこも絶景な」風景を見ながら、車を走らせていると、ひとつの古い教会を見つけた。廃墟と化している石造りの教会は、前回のハワースの「荒れ野」にあった廃墟を彷彿とさせる建物である。日本を旅するときには、僕は、屋根の形に注目する。そして、えげれすを旅するときには、僕はいつも、建材に注目する。えげれすで木造はほとんど見たことがないが、石造りの家は、スコットランドウェールズに多い。スコットランドの北部海岸線沿いなどでは、未だにほぼすべての建築が石造りであったりする。このアイラでは、石造り建築の比率はさほど高くない気がしたが、廃墟になると、比率がぐんと上がる。石造りは趣があるんだな。基本的に頑丈だし、なかなか崩れ落ちないが、長い年月をかけて徐々に崩れていくと、「朽ち果てていく美」のようなもの表れる。風雨に晒され、それ自体が風化していく様がよくわかる。この島には、そうした廃墟が数多く見られた。

 
ホテルに戻り、今回の最大の目的の一つである、Lochside Hotelのバーに行く。ここには、400種以上のモルトが揃っており、蒸留所ツアーなんかも企画している。食事をした後、飲みモードに入る。最後に、晩に部屋で飲む分を買って帰ろうとした時、トラブルが起きた。

 
ここはバー(というかパブ)なので、ストックは基本的に置いていないというのである。そう言われてみれば、パブでワインのTake Awayはしたことがあるが、ウィスキーはやったことがない。確かに、それはそうかもしれぬ。しかし、飲み足りぬ。

 
最初に頼んだおばちゃんは、

 
「私、わからないのよ」

 
と言って、どこぞに電話をかけた。すると、次に登場したのはおばちゃん二号である。彼女は、しばらくあちこちをごそごそした後、

 
「私もわからないのよ。ボスを呼ぶから待ってて」

 
と言って、また、どこぞへ、電話をかける。

 
さぁて、何だか大騒動になってきたぞ。現在、店にいるスタッフたちは、どうみても「ボス」ではなさそうだ。おばちゃん一号は、なかなか愛想もいいし、働き者だが、モルトに詳しそうではない。おばちゃん二号は、一号よりは詳しそうだが、それでも限界がありそうだ。

 
現在、このパブをまわしているのは、どことなくMr.ビーン然としたガキンチョである。眉毛がほどよくビーンな彼は、食事時間帯にはまめまめしく働いていたおねぇちゃんの弟分といった位置付けか。ときに、ここまで僕らが出会ってきた人々は、そこそこ観光慣れしており、訛りをそれほど感じなかった。Bowmoreの「i」のおばちゃん然り、ホテルのミックジャガー然り。おばちゃん一号はかなり訛っていたが、おばちゃん二号は、なかなかsophisticatedされた発音であった。然し、このビーンはいただけない。どうにも、「ビーン眉毛」と「ビーン目ん玉」が気になって、まともに彼の顔を正視できないのだが、それはそれとして、彼のしゃべりはまるで聞き取れない。あれは英語なのかい?

 
町の人間たちと盛り上がるビーンの横顔を飽きることなく見ていた僕の前に、次に現れたのは、なにやら、重鎮っぽい貫禄を身に纏ったおっちゃんである。今まで登場したのは雑魚キャラだったのか、と思わせる、ラスボス感あふれる貫禄である。彼は、僕らとは微妙な距離に落ち着き、早速モルトを飲み始めた。ん?客なのか?ボスなのか?

 
これはえげれす全土に当てはまることだけど、そして、スコットランドやアイラでさえもそうなのだが、パブでウィスキーを飲む人は、少数派である。この国の人間は、ビールが好きである。何も食わずに、ビールを飲む。立ってひたすら、ビールを飲む。パブの外でひたすら、ビールを飲む。これが、えげれすのパブの、正しい風景である。また、仮に、ウィスキーを飲む人間がいたとしても、頼むのは大抵、ブレンディッドと、相場は決まっている。モルトを飲む人間はあまり見たことがない。それは、このような、モルトの専門パブでさえも、そうなのである。然るに、この貫禄おやじは、一敗目からいきなりモルトである。・・・矢張り、タダ者ではない。そして、何ともいえない微笑を浮かべつつ、こちらをチラチラと見る。

 
なんだなんだ。
やっぱり彼が「ボス」なのか?

 
それにしては、この情勢がピクリとも動きそうにないのはどういうわけなのか。おばちゃん二号は、「ボスが来たら、全ては解決する」と言ってたのに。

 
そうこうしてるうちに、貫禄重鎮おやじは、電話をかけ始めた。

 
さっきから度々登場するこの電話は、内線専用の電話なのである。つまり、おばちゃん一号も、おばちゃん二号も、そして貫禄重鎮モルト飲みおやじも、内輪の誰かと話しているのだ。

 
矢張り、ボスは他にいるのか!
彼は、青レンジャー的ポジションなのか?


おやじは、こちらをちらちら見ながら、電話を続ける。想像するに、

 
「日本の若いのがきてんで」
「今、風呂やねん」
「どうしよ?」
「髪の毛乾かすから、それまで待たせといて」
「わかった・・・って、じぶん、ハゲとるやないか!」
「はっはっは」

 
想像を膨らませていると、程なくして、アロハシャツ系を着たおっちゃんが登場した。顔を見ると、貫禄おやじと似ている。当然、ハゲている。そして、どうやらアロハおやじがボスらしい。ここで、事態は一気に流れ始めた。彼は、つやつやしたアタマをこちらに向けつつ、なにやら指令を出した。誰に、何を、命令したんだ?

 
数分後に、我らに差し出されたのは、実に実にフツーの、Bowmore12年&17年とLaphroaig10年である。

 
こんだけ待って、これだけかい!

 
然し、アロハおやじの素敵なバスタイムを邪魔してすまなかったので、我々はおとなしく引き下がった。彼は、妙に血色の良い顔で「バーイ」と言った。

 
翌日は、蒸留所巡りの本番である。ただし、ツアーの時間が決まっており、なかなか数を稼げない。結局、Ardbegを皮切りに、Lagavulin(外観のみ)を見て、最後はLaphroaigで、この日は終わった。

 
Laphroaigは、スコットランド蒸留所の中でも4箇所しか残っていないという、「今でも自らモルト造りをしている蒸留所」の一つである。ここでの「モルト」というのは、「シングルモルトウィスキー」のことではなく、文字通り「麦芽」のことを指す。ここで、初めて、キルンの内部を見ることができた。これはなかなか貴重である。実際に、ここで、ピートが燃やされ、麦の発芽が止められるのと同時に、あの独特の「ピート香」がつくのである。然も、Laphroaigは、アイラモルトの中でも、ひときわきっつい香りがあるので有名である。土産で買ってきた、Laphroaigのマウスパッドには、「好きか、嫌いか。その間はない」と書いてある。

 
さて、蒸留所もいいが、果て好きとしては、果ても極めないといけない。島の南に位置する三つの蒸留所、Laphroaig、Lagavulin、Ardbeg、はそれぞれ並んでいるのだが、Ardbegから先の道は未舗装で、かなり荒れてくる。悪路好きとしては堪えられない。攻めねば。

 
いったい、えげれすというのは、流石に福祉国家の老舗だけあり、公共施設の充実振りに関しては、目を見張るものがある。電気の通ってない地域はあるんだろうか?電話の無いところはあるのか?こんな、僻地の島でさえも、全てのインフラ整っているところは本当に凄い。ゴミの収集も来るらしく、規定の容器が置いてある。奥の奥に行っても、きちんと公衆電話がある。そして、どこまで行っても、基本的に、道は舗装されているのだ。日本だと、例えば、数年前に、かなりの数の道が新たに国道認定を受けたので、嘗ては林道だった道が、いきなり国道に昇格した、なんてこともある。つまり、国道でも未舗装の道が結構誕生したが、えげれすを走っていて、未舗装だった経験はない。

 
だから、これは、初めての経験であった。これほど荒れ果てた道を通るのは、初めてだ。地図上では、この道は、最終的に、Ardtallaという地で終わっている。そして、そこに着いた。完全なる最果て。文字通り、最果てである。そしてそこには、一軒の家屋がポツンと建っていた。この家しかないのだ。この家は、セルフケータリングのコテージらしい。つまり、有人の集落ではなかった。

 
うーむ。
いいねぇ。
無人の家が一軒。
そこで果つる道。
果て好きの心を存分に満たしてくれる。

 
帰り道、とある場所にあるケルティッククロスを見た。これは、スコットランド最古の現存クロスらしい。僕がもし金持ちになったら、絶対買いたい品物のひとつに、「WATERFORDクリスタルの、ケルティッククロス(ロット番号入り・セルフリッジで売られている)」がある。本当に惚れ惚れするもので、どれだけ眺めていても飽きない代物であり、僕は暇があると、セルフリッジへ出かけて、それを眺めることにしている。そして、今、目の前にあるケルティッククロスは、なんとなくそれに似ているような気がした。

 
Port Ellenの蒸留所跡を見た後、Bowmoreの町に戻ることにした。アイラの空港の傍、ゴルフ場がある辺りが、Laphroaigで使うピートの掘り出し現場らしい。蒸留所でそのように聞いていたので、注意してみると、あった!これか!ただ、よく見ると、そこらじゅうで掘られまくっている。うーむ、これが、アイラウィスキーの源なのか。なんとも感慨深いぞ、これは。

 
この日は、夕食を、シーフードレストランで取ろうということになった。これまでのパターンとして、えげれすの海際の町に行ったとして、

 
「海が近いし、新鮮な魚介類でも食べるか」

 
と、期待に胸を膨らまして店に入ると、

 
「シーフードレストランなのに、鯖のスモーク」
「シーフードに力入れてます系パブなのに、鮭を無造作に焼いたやつ」

 
そして、一番ありがちなのは、

 
「シーフードだと思ったら、みんな大好きFish&Chips」

 
という結末を迎えるパターンである。

 
他の魚はないのか?
他の喰い方は知らんのか?
すぐに揚げるな!何処ででも揚げるな!港なのに揚げるな!

 
何度、ツッコミ入れてきたことか。「シーフードレストラン」ってのは、「海のモノを喰わせるレストラン」って意味じゃないんだよ。「イロイロな海のモノを喰わせるレストラン」って意味なんだよ。「イロイロな海のモノを、イロイロな仕方で、喰わせるレストラン」って意味なんだよ。おっきくて、広い海には、鯖と鮭と鱈以外にも、イロイロな生き物がワンサカ棲んでいるんだよ。焼くなら焼くで、微妙な火の通り加減、煮るなら煮るで、微妙な出汁の加減、生、洗い、焼く、煮る、蒸す、干す、料理にはイロイロな仕方があるんだよ。そして、揚げるってのは、一番最後の手段なんだよ。

 
しかーし、なんてこった!アイラはやってくれたのだ。このレストランは、素晴らしく繊細な味付けと、素晴らしく洗練された盛り付け、という、どちらもえげれすではまずお目にかかれないワザを繰り出してきた。そして何よりも、旨い。僕が食べたのは、ホタテのバター焼きだった。最初にメニュー見た時には、正直なところ、平平凡凡だなぁと思った。しかるに、こいつは、やってくれた。えげれすでは、ホタテなどというものは、そもそもお目にかかる機会が少ないし、お目にかかったとしても、揚げられ、芋と共に、つまりは「フィッシュ&チップス」の姿に成り果てて供されるのが常である。バター焼きなんて見たことがない。半信半疑だったが、このレストランはやってくれた。絶妙な火加減と、味付けである。えげれすの「火入れ」は、ブロッコリーを脱色させて黄色にし、パスタをふにゃふにゃして伊勢うどんの如く変身させるものである。「火加減」という概念は存在せず、すべては「とことん、煮込む」に統一されるものである。ところがこのバター焼きは、本来のバター焼きがそうであるように、そうであるべきように、中心が半生で、周りがカリっと、そしてその余熱がじんわり浸透して絶妙になるという、空前絶後のワザを見せてくれているのである。その上、これまたあろうことか、キモの部分が切り離されていて、それはそれとして、綺麗に盛り付けられている。

 

旨い!このレストランは、「ためだけ」に、わざわざ行ってもいいと思うところであった。

 
最終日、残りの蒸留所を巡った。まずはBowmore。僕の最も好きなアイラモルトの一つである。ピートの香りもさることながら、なんとも優しい甘さが共存していて、僕の好みに合う。ここは、最もビジター設備の整った蒸留所の一つでもある。蒸留所の隣にある、元倉庫は、町に寄付されて、今では、蒸留過程で発する熱を利用したスポーツセンターになっているとのこと。名実共に、Bowmoreの町の中心企業なのであろう。然も、18世紀の終わりから既に、税金を払っていたという。昔は、密造が主流だったウィスキー蒸留は、合法化の過程で、その多くが廃れていったという。

 
これまた道の終点にあるBunnahabhainを見た後、時間が多少あったので、隣のJura島に渡ることにした。この二つの島は、とても近く、肉眼でも余裕で、向こうの船着場が見える距離である。車5~6台くらいしか載らない小さいフェリーが頻繁に行き来をする。

 
Juraは、本土との直接の便がないせいか、より、離島の趣があった。大抵のえげれすの道では、牧羊地との境界には囲いがある。また、道路上を「境界」が横切っている箇所には、道路上に、Cattle Gridと呼ばれる溝がある。牛や羊は、足が挟まりそうなその溝を超えられず、彼らが「境界」の外へ逃げ出せない仕組みになっている。然し、Juraの道では、牧羊地と道の「境界」そのものがほとんどない。奴らはうじゃうじゃと、そこら中を無造作に歩き回り、馬も牛も、そして鹿までも、道に遠慮なく侵入してくる。気分は、「えげれす版サファリパーク」である。

 
この島には、一本の道しかない。道の途中に、中心集落のCraighouseがあるが、それ以外は、集落とは名ばかり、ほんの小さい単位の家の塊があるのみである。ここでも、果ては極めなければならないので、北の端まで行くことにした。この島は、本当に「最果て」を感じさせる風景ばかりで、果て好きの心を激しく揺さぶってくる。然し、何故、こんな「果て」の島にさえも、蒸留所(Isle of Jura)があるのか?人が住むようになった経緯だけでなく、蒸留所があるという事実にも、歴史の不可思議を感じさせる風景であった。思えば、こんな島で作られたウィスキーが、遠く8000kmの彼方、日本に運ばれ日本で飲まれているってことは、まったくもって凄いことだ。「島の暮らし」というものに興味を覚えるのと同時に、他の離島にも行ってみたいという気持ちを強くしたのだった。

 
えげれす本土に戻ったのは、21:30くらいであった。月がきれいに出ている。僕は、このフェリーが着くKennacraigからさらに南へ伸びるA83道路を攻めようと思っていた。地図上で見る限り、この道の先には「果て」がある。そして、その目的地、Campbelltownからさらに南に向かい、Mull of Kintyreに行こうと考えた。ここは半島であり、半島なので最後は行き止まりである。この半島の存在は、知ってはいたものの、倫敦からは距離があり、面積も大きいので、先端を極めるような機会にはなかなか恵まれない。この機を逃してはいけない。

 
夜の道は、魑魅魍魎である。猫が出る。兎が出る。馬もいるし、牛もいる。奴らもいるし、やはり喰っている。泰然と、喰っている。おいおい、夜中だぞ。いつ寝るんだよ?寝ても覚めても喰っているのかい?

 
アイラとジュラが素晴らしすぎたので、僕は確かに、いい気になっていた。油断をしていた。失念していた。そう、これが「緑のマイクラ」だということを。

 
Campbelltownは空港もある大きな町である。だから、給油できると踏んでいたのだが、夜に営業しているガススタンドが見つからない。どんなに田舎に行っても、どんなに僻地に行っても、ゴミ収集サービスはあり、公衆電話はあり、郵便ポストがあるえげれす。公共的なインフラは網羅的なえげれす。しかし、資本主義的なモノゴトになると、とたんに怠惰になるのがえげれすであった。夜?んなもん、やってられるかい。閉めるに決まったるがな。夜ってのはな、寝るもんや。寝る前にはな、飲むもんや。ガススタンドのおやじは、さくっと店じまいをして、パブで飲んだくれているに違いない。

 
ガス欠になった「緑のマイクラ」の救助を求めて、なんと、スコットランド二度目の、「JAF的なもの」を呼ぶことになってしまった。いやはや、なんてこった。呆然自失とは、まさにこのことだ。我を失うとは、まさにこのことだ。落ち着け。落ち着かねばならぬ。

 
ふとあたりを見ると、月明かりに照らされた奴らが、何物にも動じず、喰っていた。泰然と、落ち着き払い、変わらぬ調子で、喰っている。

 
・・・ううむ。

【旧】えげれす通信_vol41:荒れ野 (29/06/2000)

僕はそれほど文学好きなわけではない。気に入った作家はいるので、その人の作品をとことん読むという、全く以ってB型的ハマり方をすることはあるものの、広く深く、文学に勤しむ、などということはあまり無い。

 
僕が、「これ」と出会ったきっかけは、全くの偶然であった。日本で、さる大学の、さるゼミに参加していた際、輪読テキストが、テリー・イーグルトンという文芸批評家による「ブロンテ三姉妹」という本になった。ちなみにこのゼミは、人類学のゼミであって、文学のゼミではない。

 
お恥ずかしながら、僕はそれまで、ブロンテなる名前は全く知らなかった。しかし「三姉妹」には惹かれる。風間三姉妹にも惹かれる。

 
読んでみてすぐにわかった。そうか。えげれすの小説「嵐が丘」の作者だったのか。ただし、「嵐が丘」も、タイトルこそ聞いたことがあるが、読んだことはない。

 
僕は、ゼミの予習も兼ねて、映画「嵐が丘」のビデオを借りてきた。そして…感動の嵐に包まれたのであった。

 
このゼミでは、如何なることが問題になったのか。この小説が書かれた19世紀えげれすというのは、産業革命が急速に進行していた時代である。資本主義が発展する中で、貧富の差の拡大というある種の近代化と、女性が文筆活動を行うなど許さないという前近代的な風潮が併存していた時代である。そのような社会的背景が、色濃く、小説の内容そのものに反映されている。つまり、創作物というものは、社会から自由ではいられない、ということがテーマであった。

 
ゼミの輪読は終わったが、僕の、ブロンテ姉妹に対する関心は、日ごとに高まっていった。そこで、「嵐が丘」に続き、「ジェーン・エア」と、「嵐が丘」の別ヴァージョン、そして「ブロンテ姉妹」という映画を、続けざまに見た。

 
ブロンテ三姉妹と言われるのは、暗闇指令の部下たちなどでは当然なく、次の三人である。

 
シャーロット・ブロンテ(1816-1855)
代表作:「ジェーン・エア(原題"Jane Eyre")」

 
エミリー・ブロンテ(1818-1848)
代表作:「嵐が丘(原題"Wuthering Heights")」

 
アン・ブロンテ(1820-1849)
代表作:「アグネスグレイ(原題"Agnes Grey")」

 
彼女たちの没年を見ればわかるように、皆、恐ろしく短命である。これは、彼女たちの生い立ちと生活環境を参照すれば、納得できる。彼女たちは、自然の荒野の中で、ぎりぎりの暮らしをしていた。

 
彼女たちの父、パトリック・ブロンテ(1777-1861)は、アイルランドの貧しい家に生まれながら、1802年ケンブリッジのSt.John's Collegeに合格した。これを機会に、彼は自分の苗字を、Bruntyから、より洗練された響きのあるBronteに変えた。学校を終えた彼は、教区牧師として各地を転々とし、最終的に、ハワースの地に落ち着いたのは1820年のことであった。当時、アンは生まれたばかり、他には、シャーロットの上に、二人の姉がいた。そして、シャーロットの下には、ブランウェルという男の子がいたので、この時点で、子供は6人いたことになる。

 
この頃から、彼らには、暗雲がたちこめ始める。先ず、1821年、ハワースに移り住んでから僅か一年後、三姉妹の母が亡くなる。次に、1825年、上二人の女の子も亡くなる。彼女たちが通わせられていた学校では、劣悪な環境の下に、厳格過ぎる教育が行われていた。それが一因であったとも言われる。これらの状況は、シャーロットの「ジェーン・エア」の中で描かれている。見た感じ、監獄のようなものであった。西洋の物語に良く出てくる、「いじわるばぁさん」がうじゃうじゃいて、子供たちが、かなり陰湿にいじめられるという、あれだ。

 
一気に二人の子供を失ったパトリックは、同じ学校に通っていたシャーロットとエミリーを、一時、家に引き取ることにした。それ以来、父親であるパトリックが、彼女たちの教育を行った。また、亡くなった母方の叔母、エリザベスが、家事一般を担うと共に、女性としての心得を彼女たちに施したとされる。

 
その後、彼女たちは、教職に就いたり、見識を深めるためにブリュッセルに赴いたりと、精力的な活動をする。他方、ブランウェルは、将来を嘱望されたアーティストであり、肖像画画家としての道を歩もうとしていた。彼は、有能なアーティストだったが、なかなか結果を出せない焦りから、次第に酒に溺れるようになる。彼の生涯の後半は、酒と薬と借金に負われるという、堕落した芸術家にありがちな汚点に塗れていた。

 
どうも、この一家は、芸術一家であったらしい。そして、それは、父パトリックの方針でもあったらしい。シャーロットとブランウェルは、さる芸術家の元に通って、絵を勉強していた。エミリーはピアノの才能に恵まれていた。アンは、歌うことをより好んだ。才能というのは、天から授かるものであるが、少なくともその半分は、環境が物を言うような気もする。

 
僕はちっこい頃、

 
「チェロをやりたい」

 
と、なかなか高尚なことを言ったそうだが、そんなもんを習わせるところは、そうそう近所にある訳もなく、おかんは決断を怠った。ここに、不世出の天才チェリストが現れる可能性が、さっくり消えてしまった。おかんは今でもそのときのことを悔やんで、「探してでもやらせれば良かった」と言っている。全くその通りである。習っていたら、今頃は、えげれすではなく、音楽の都ウィーンの空の下で、旨いソーセージと旨いビールを楽しみながら、「ウィーン通信」を書いていたことだろう。

 
・・・同じかい。

 
さて、ここで、彼女たちの人となりを、説明する。尤も、「ブロンテ姉妹」の映画で見たのと、今回訪ねた「ブロンテ博物館」の資料からの抜粋である。

 
シャーロット。彼女は内気な一方、事実上の長女なので、所謂長女タイプでもあったらしい。割と辛抱強く、職を務めたりしている。優等生タイプであり、秘技は「戻り鶴」である。

 
ブランウェル。彼は、上に書いたように、周りからはその才能を認められていた。然し、浪費癖が、彼の人生を狂わせてしまった。借金を背負って家に戻ること数回、彼は、ハワースのパブ、「Black Bull」に入り浸り、次第に体を壊していった。

 
エミリー。リリアン棒を自在に操りながら、編み物など家事一般を、最もよくこなしていた。シャーロットと共に、家を離れたときには、ホームシックにかかり、すぐに現場を逃げ出すなんていうこともあった。叔母のエリザベスが1842年に亡くなってからは、彼女が、家事と父の世話を担当したという。

 
アン。ううむ。浅香唯は可愛かった。然し、アンに関しては、あまりデータがないらしい。映画を見ても、いまいち印象に残っていない。作品を見てないし、読んでもいないというのも、一因かもしれぬ。

 
そして、重要なのは、ブロンテ一家が、凄まじく貧しかったということと、ハワースという土地の地理的条件が、凄まじく厳しかったということであるで。牧師としての信頼は厚かったパトリックだが、生活は本当に苦しかったらしい。また、寒寒としたムーア(荒野)に囲まれた、一小村のハワースの寂しさと厳しさは、筆舌に尽くし難い。「嵐が丘」の映画で存分に描写されているけれど、ムーアというのは、本当に寂しいものなのだ。キャシーとヒースクリフが、馬に乗って駆け回る荒野、短い夏には、ヒースという紫の野草が一斉に花を咲かせる荒野、広大にして厳粛なる大自然がすぐ目の前にあるこの環境は、彼女たちの作風に大きな影響を与えたとされる。作品全体を覆う、なんとも言えない暗澹たる色彩を生んでいるのは、必ずしも、生活の貧しさだけではない。

 
彼女たちが、初めて作品を上梓したのは1846年のことであった。「Poems」と名づけられたこの詩集は、Currer Bell、Ellis Bell、Acton Bell、のペンネームで自費出版された。偽名を使わざるを得なかったのは、冒頭に書いたような社会状況、つまり、女性が文筆活動などを行うものではないという規範がまだ強かった時代環境を反映したものである。言うまでもなく、これらの名前は、男性の名前である。

 
詩集が売れたのは、僅か二部であった。

 
以後、「ジェーン・エア」(1847)、「嵐が丘」(1847)、「アグネスグレイ」(1847)と立て続けに出版をした三姉妹は、精力的に執筆活動を行う。徐々に評判も良くなり、次第にこの作者は一体誰なのかという、世間の噂が立ち上るようになった。ある出版社が故意に流した噂により、Currer、Ellis、Actonの三人は、実は同一人物であるという風評も広まった。それを正すために、シャーロットとアンがロンドンを訪れたりもしている。

 
漸く日の目を見た彼女たちだったが、幸せは長く続かなかった。酒と薬で体がぼろぼろのブランウェルが、1848年に没する。彼の葬儀に出席したエミリーは、そこで風邪を引いてしまう。体調が悪いことをひた隠しに隠していた彼女が遂に倒れたとき、既に手遅れなほど、病状は進んでいた。結局、彼女が、医者に診てもらったのは、死の直前の一度のみであったという。1848年12月19日、エミリー死す。享年30。病名は肺結核であった。

 
程なく、今度はアンが同じ病気に罹る。医者から静養が必要と言われたアンは、シャーロットに付き添って貰って、海辺の町、Scarboroughに赴く。ここの海風は、当時、肺病に良いとされていた。然し、シャーロットの介護も空しく、アン死す。1849年5月28日。享年29。

 
姉妹の中で、唯一結婚したシャーロット。然し、彼女もまた、同じ運命を辿ることになった。当時、既に、彼女は小説家として名を成していたのだが、その期間はまことに短いものであった。結婚したのが1854年6月29日。アイルランドへ新婚旅行へ出かけて、戻ってきてすぐ、彼女は亡くなることになる。1855年3月31日。享年38。お腹には子供がいたという。

 
なんとも残酷な、過酷な、人生である。

 
と、ここまで、前置きが長くなってしまいましたが、行って来ました、ハワースへ。

 
街は本当に小さく、ほぼ当時のまま、メインストリートが残っていて、とてもいい感じである。僕は早速、ムーア歩きに出かけることにした。せっかくなので、荒れ野を、歩き倒さなければならない。最終目的地、Top Withensと呼ばれる廃墟までは、往復10km、四時間の行程である。さくっと、というわけにはいかぬ。然し、これを見なければ、極めたことにはならない。えげれすに来て、フィッシュ&チップス、ベークドポテト、ベークドビーンズという「基本メシ」を喰って唸らずに、「極めた」と言うようなものである。

 
えげれす人は、全く以って、Walking好きである。Walknigツアーってのがかなりあちこちで主催されていて、参加者も多い。えげれす人っていうのは、なんというか、ゆったりしている。せかせかしない。その点は、日本人と正反対なのかもしれない。例えば、休日、車で景色のいいところに繰り出したとする。日本なら、多分そこには、なんちゃら記念館となんちゃら博物館となんちゃら美術館と、温泉とホテルとテニスコートとバーベキュー場と、寺と神社と庭園と遊園地とゲーセンとボーリング場と、ロープウェイと展望台とお土産屋かなんかがあって、

 
「記念だし、入ろっか」
「珍しそうだから見ようよ」
「綺麗な美術館ねぇ」
「日帰り入浴はできるかしら」
「お食事はホテルで取りましょうよ」
「ねぇ一寸テニスしていかない?」
「あ、お肉買いに行かなきゃ」
「古そうなお寺だな」
「神社もあるわね」
「綺麗なお庭」
「あのジェットコースターのりたーい」
「オレはゲーセンがいいな」
「そして、一発、投げとくか」
「お、登ってみようぜ」
「まぁ、綺麗な見晴らし」
温泉饅頭は基本でしょ」

 
と言って、せわしなく、網羅的に行動する。日本人は、とっても密度の濃い休日のを過ごし方をよしとする。そして、帰りの大渋滞に巻き込まれ、へとへとになって帰宅する、というところまでがセットである。

 
然し、えげれすは違う。えげれすには、なんちゃら記念館もなんちゃら博物館もなんちゃら美術館も、温泉もホテルもテニスコートもバーベキュー場も、寺も神社も庭園も遊園地もゲーセンもボーリング場も、ロープウェイも展望台もお土産屋も、まず無い。

 
あるのは、

 
「歩道」

 
そして、することは、

 
「Walking」

 
この一択、潔い一択である。彼らは、車を然るべきところに停め、おもむろに、カッパを着始める。晴れていようが、いなかろうが、カッパを着る。靴を履き替え、帽子を被り、リュックを背負う。そして・・・歩く。歩く。ひたすら歩く。

 
確かに自然は綺麗だし、全く人工物のないところを歩くのは、命の洗濯って言葉がぴったりする感じではある。しかしながら、彼らのウォーキング好きは、堂に入っている。男も女も、おっさんもおばちゃんも、ばぁさんもじいさんも、兎に角歩く。老いも若きもこぞって歩く。歩いている彼らは、とっても嬉しそうである。

 
然し、これはまだ、彼らにしてみれば、「動きがある方」である。もう一つ、彼らがいい景色のところですることと言えば、

 
「日光浴」

 
彼らは、車を然るべきところに停め、おもむろに、折りたたみ椅子を取り出す。そして・・・寝る。寝る。ひたすら寝る。

 
確かに日光浴は気持ちいいし、景色のいいところで眠るのはとっても気持ちがいい。しかーし、せわしないにっぽんじんの目から見ると、あの光景は、なんとも言えないものに映る。

 
もっと、動けーーー!
何で、ここまで来て、寝んねん!

 
「折角なのに、勿体ない」と思う僕は、矢張りにっぽんじんなのである。

 
話が、あさっての方向に大きくずれてしまった。・・・というわけなので、僕は意を決して、10kmコースに挑むことにした。ガイドには、往復4時間とある。然も、注意書きがあって、

 
・ムーアを嘗めたらダメよ甘く見るなよ
・夏でもエゲつない気候
・晴れたと思ったらすぐ豪雨
・食糧はたっぷり持っていきなさい
・水を忘れたらイロイロ終わるよ
・いっぱい着込め軽装はマジでやめとけ
・サンダル履きとか、舐めた格好は、本気でやられるぞ

 
などと、びびらせまくり文章が並んでいる。ブリテン島ってのは、高い山も、切れ込んだ渓谷もなく、あるのは丘と、低い山のみである。尤も、ハワースのあるヨークシャーは、daleと言われる独特の谷が沢山あって、イングランドの中ではぼちぼち険しい地形のところだけれども、いっても、たかが知れている。僕は、一応は水だけ買って出かけた。

 
暫く車道を歩いた後、例の「歩道」が現れる。「歩道」は「Public Footpath」と呼ばれ、国中に張り巡らせられている。ここは人気コースなので、あまり荒れているところはなく、表示もきちんとしているので、コースアウトの心配はなさそうだ。人気のないコースなどでは、もろもろが朽ち果てていたりするので、ガイドがないと厳しいところもあるらしい。

 
周りは、丘、丘、また、丘。そして、丘と言えば、そこにいるものはただ一つ。

 
羊。

 
僕は今回、初めて奴らを、至近距離で見た。歩道は、奴らの囲いの内部にあったりするのだ。それで、しみじみ思った。矢張り、物事は、接近してみないと、「本当のこと」が分からないのだと。

 
遠くから見る奴らは、常に、僕らの心を和ませてくれていた。緑の草原に、ポツポツと白い斑点を作る奴らは、えげれすの原風景の一つである。もはや、風景の構成要素として必須である。遠くから見るあの景色はとても綺麗だし、見ていると、まるで草原を駆け巡るハイジのように、自分も駆けてみたくなる。

 
しかーし。現実はそんなに甘いもんではなかった。奴らはいつも、喰っている。どこででも、どんなときでも、絶え間なく、喰っている。ということは、どこででも、どんなときでも、絶え間なく、出している、ということでもある。この当たり前とも言える事実は、接近してみなければ、全くわからなかった。喰えば、出る。自然の摂理であるが、「風景」の時には、想像だにできなかった。・・・だって、「風景」が「うんこ」をするか?

 
緑の草原に白い斑点を作るくらいならまだしも、ややもすれば、雪景色の中の雑草状態になっていることもあって、要するに、夥しい数がいるということ。となると、「出すモノ」の数というか、量というか、密度というか、それも当然の如く、夥しいものになる。そこまでは、遠目では見えないのだ。だから、「風景」の段階では、ハイジのように、駆け回りたいとか、寝転びたいとか、暢気なことが言えるけど、実際にやったら、とんでもないハイジが出来上がることになる。それとも彼女は、「それが自然」とばかり、そのままの姿で、笑顔でブランコをこぐのだろうか。

 
そんなこんなで、「次の一歩」を着地させる「スキマ」を秒単位で確保する、という、我が人生では使ったことのない脳の動きを伴う「うんこ回避行動」を取りつつ、僕は前進した。街中で犬のうんこを踏んだときのショックは計り知れないものがあるが、それは、この広い世界にあるたった一個のうんこを、自分の歩幅との兼ね合いで偶然にも丁度踏みしめてしまった物凄い偶然に、ある意味「運気」みたいなものを感じるからである。しかし今回の場合は、それとはちと訳が違うのだ。そこで僕は、「もはやそれは「土」である」「土であるから、踏んでも構わない」「何か問題ですか?」という、発想の画期的転換を行った。だいたい、色は同じではないか。人間、追い込まれると、常人ではなし得ない行動を思いつけるものである。

 
自らの叡智に酔っていたのも束の間、まもなく、僕は、その画期的発想の瑕疵に気づいた。色がおんなじだからと言って、うんことカレーは違うように、うんこはやっぱりうんこなのであった。いざ、踏んでみると、そこには、微妙な質感の違いがあった。「広い世界のただ一つのうんこ」を、意図せず、踏んでしまった経験は、何度かある。しかし、意図的に「踏みに行った」のは、我が人生、初めてである。「それとわかっていて、それを踏む」と、それぞれのブツは、形状もさることながら、保存状態の違いもあって、まさに千差万別である。驚異的な太さのものから、可愛らしいものまで、そして、既に土に化しているものから鮮度の良いものまで、多様性の塊である。…あ、いや、「塊」はやめておこう。比喩なんだけど、ある意味、比喩にならないな。だから、やっぱり、気をつけながら歩かなければならぬ。コペルニクス的転回を遂げたと思われた回避行動は、瞬時に無に帰した。

 
…今回は、ヒースクリフとキャシーの悲恋話と、それを生んだブロンテ三姉妹の哀しい生涯を、寂寥のムーアに絡めて展開するつもりだったのに。何で、オレは、うんこを熱く語っているんだ?いかんいかん。

 
羊は相変わらず、必ずどこかにいるんだけど、周りは、丘ばかりで、他に目印が無い。奴らは目印にはならない。なだらかな丘陵がうねりながら延々と続き、背の高いものが全く無い。目印になる岩とか低木などがあっても、すぐに丘陵の「うねり」の下に隠れてしまうのだ。辺りは一面にヒースの群生。どこを見回しても、360度、同じ景色である。羊。草原。丘陵。低木。ヒース。「荒野」という言葉がまさにぴったりくる景色である。僕は、「嵐が丘」の中で、ヒースクリフとキャシーが馬で駆け回っていた、あのムーアの情景を重ねて見ていた。殺伐とした荒れ野。あの景色を、自分がまさに、歩いている。感慨深いねえ。

 
歩道はちゃんとしているから良いようなものの、それでも数回、道を外れかけた。それに気づいたのは、ガイドブックのおかげである。あれを持たずに来ていたら、迷ってしまったかもしれない。そして、道を外れてしまったら、目印となるものが殆どなく、360度景色が同じで、気候の変化がめまぐるしいここでは、遭難することもあり得るかもしれないと思った。「嵐が丘」の中でも、キャシーが豪雨に打たれて、死にかけたではないか。そうなると、あの、びびらせまくり注意書きも、満更嘘ではないのかもしれない。全くもって、「ムーアを嘗めたらいかん」のである。

 
姉妹が好きだったという「ブロンテの滝」、同じくお気に入りだったという「ブロンテの橋」、等のポイントを過ぎ、愈々佳境に入る。時間としては、夕方17時。傾きかけた太陽が、荒野を照らす。ひたすら続く丘陵とヒースの群れ。人工物は何もない。そして、遥か遠くに、何かが建っているのが見えた。最終目的地、「Top Withens」である。

 
この廃墟は、1900年頃までは使われていたという、農業施設だそうで、今ではすっかり朽ち果てている。石造りの、この地方に多く見られる様式だが、屋根は朽ち果て、壁も崩れかけている。傍には、大きな2本の楓の木がある。「楓」って、木偏に風って書くんだね。まさに、強風が吹き荒れ、空に浮かんだ雲は、瞬く間に通り過ぎる。エミリーは、ここの家を見て、「嵐が丘」の着想を得たと言われているのだが、僕の中で、また一つ、記憶が交錯した。映画のシーンそのままなのだ。

 
全く無人の、人の気配が全く無い、荒野の中に、独りいると、しみじみと自然の厳しさを感じることができる。この自然は彼女たちに、「小説のいのち」を吹き込んだが、同時に、彼女たちの「生命」も奪ったのだと思うと、厳粛な気持ちになってくる。

 
僕は、来て良かったと、心から思った。

 
翌日は、ブロンテ博物館に行った。彼女たちの生家はまた別にあるのだが、生涯の一番多くの時間をここで費やしたのだという。入ってすぐ右側の部屋は、パトリックの書斎である。彼は、食事もここで取り、閉じこもりがちだったという。エミリーがよく弾いてあげたというピアノもここにあった。

 
その向かいには、ダイニングがある。ここは、ハイライトの一つらしい。中心のテーブルに座って彼女たちは食事を取り、その後、夜遅くまで、小説の構想について議論をしたという。アンが好んで座ったというロッキングチェアや、エミリーがその上で亡くなったというソファーがある。彼女は、世界的に評価の高い小説を一本書いたのみで、その短い生涯を閉じたのだ。ここで。

 
その他、パトリックが毎晩九時になると、娘たちに、「あまり遅くまで起きていないように」と言ったという、曰くつきの時計だとか、エミリーがその上で毎日パンを焼いたという台とか、シャーロットの、日本趣味のジュエリーボックスだとか、様々なものが保存されている。僕は、ふと思った。一般に、ブロンテ一家は貧しくて、生活に困っていたとみなされている。ただし、それには注釈が要るのではないか。

 
先ず、第一に、パトリックが子供たちに、芸術の素養を身に付けさせようと、色々な努力をしていたという事実がある。また、彼らの家には常に、servantがいたと言う事実もある。困難さと費用とが、現代のそれとは比べ物にならないほど大きい当時、彼女たちは数回にわたり、旅行をしている。「貧しくて生活にも困る」という事実に、偽りはないのかもしれない。他方で、この伝統ある階級社会のえげれすにおいては、いくら貧しかろうが、貧しさで階級が下がることはない。彼らは、依然として、ある一定の階級に属していたんだろうと思われる。そして、「その階級に属していること」は、「その階級の人ならば当然身につけなければならない素養」を身につけなければならないということを意味する。生活必需品ではないが、いわば「階級必需品」のようなものを、身に纏い続けなければならない、ということなのだろう。それを理解すると、ヒースクリフが、小説の中で、受けた仕打ちや取った行動の真意が汲み取れる。

 
全てを周り終えて、もう一度考えてみた。僕には矢張り、エミリーのソファーが印象的だった。一作しか書いていないのは、彼女だけなのだ。三姉妹のうち、最初に亡くなったのもエミリーであった。ずっと父親の面倒を見ていたとか、体の不調を人には決して言わなかったとか、医者に診て貰うことも拒んだとか、そういった史実に基づいて、映画「ブロンテ姉妹」の中でエミリーは、勝気な、それでいて優しい女性に描かれているんだろう。30年という短い生涯の中で、燦然と輝く作品を一作だけ遺して、逝った女性。

 
うーむ。

 
帰ったら、もう一度、「嵐が丘」を読もうと、しみじみ思いながら、ハワースを後にした。

【旧】えげれす通信_vol40:勝利の歌 (10/06/2000)

「好敵手」。うーむ、いい言葉である。「ライバル」と英訳するよりも、漢字で書いた方がいい。何となく、「敵もさるもの」というそこはかとない尊敬が垣間見えて、オトコとオトコの勝負を感じさせる。闘いは真剣に、然し闘いの後には、美酒を酌み交わそうではないかという、潔さと美しさが感じられる。

 
普段の生活で、こういう役割を自らが果たす場面は多くはない。例えば、隣近所のオヤジ同士が良い碁仲間だとしても、それは当人たちの自己満足でしかない。波平と伊佐坂先生のような関係においては、その意味が波及する範囲は、せいぜい、舟かサザエくらいである。彼女たちのつくる昼食をどうするか、程度の問題を起こすにすぎず、大きな社会現象にはなりえない。

 
ところで、実際に闘う当事者ではなく、それを観戦し、応援する者の場合はどうなるか。この場合も、場面や規模が小さいと、大した問題にはならない。然し、応援集団とその背景が大きくなるにつれ、問題は社会的に、そして、複雑に、なる。

 
例えば、僕のの母校、仙台二高は、伝統的に、仙台一高と、「定期戦」なるものを開催している。両校共に、100年近くの歴史があるので、対戦成績も、それなりにカッコがつくくらいのものになっている。これは、スポーツ全般においてそれぞれ行われるのだが、一番の花形は、矢張り、硬式野球である。

 
一年生は、入学式を済ませ、希望に胸膨らませて、来るべき高校生活を夢見る。新学期が始まる4月の某日には、「対面式」が行われる。

 
この日、一年生は、入学式に引き続き、上級生から暖かい心のこもった歓迎を受ける。

 
「よく来たねー。これからよろしくねー」

 
と、絵に描いたような演出で以って、校庭で二年三年生と対面する。逆光でよく顔が見えないが、二年三年生は「はちきれんばかりの笑顔」なのは言うまでもない。彼らは、新入生が来たのが嬉しくて溜まらないのである。そりゃ、そうだ、歓迎式典なんだから。

 
僕らの頃は(今は知らない)、対面式は、午前中に執り行われた。一年生は、上級生の暖かい歓迎に心を打たれてこれまでの受験勉強が報われてよかったと、まだ大して友達もいないクラスの中で、ぼちぼち会話が始まる。男子校とは聞いていたけど(当時の二高は男子校)、どんな感じか不安だったけど、そんなに怖いところじゃないじゃん。先輩たちも優しそうだし、やっていけそうだなー。

 
担任教員は、伝達事項を言い終わると、絶妙な面持ちで、一言付け加えた。

 
「あ、まだ帰らないように。これからあと一つ、行事があるからな」
「…ま、頑張れ ニヤリ」

 
ここの先生たちは、かなりの割合で、この高校の出身である。そしてここは、伝統を重んじる学校でもある。

 
ふと見ると、黒板の予定表に見慣れない文字が書かれてある。

 
「午前:対面式。午後:入団式」

 
入団式とはなんだ?

 
皆が首を傾げていると、隣の席の奴が不穏なことを言う。

 
「オレ、にぃちゃんがこの高校にいるんだけどさ、昨日、にぃちゃんが、オレを見て、何だかニヤっと笑うんだよな」

 
なんなんだ。なんでみんなニヤリと笑うんだ?対面式の在校生や先生は、ニコリ、だったけど、今のはみんな、ニヤリ、なんだよな。「入団式」と言うからには、どこかに所属する為の通過儀礼みたいなもんか?

 
みんなで、ああだこうだ言っていると、ふと聞こえてくる何かの音がある。

 
ピタピタピタ

 
何あれ?
何か聞こえるよね?

 
ピタピタピタピタ

 
誰か来るのかな?

 
ピタピタピタピタ
ガラッ
(教室のドアが開く)

 
「お前ら、外に出ろ早くしろ」

 
僕らは一瞬にして戦慄する。今でこそ「ロン毛」という語彙があるが、その当時は、そういう概念はない。後に我々は、彼のことを「鬼太郎」と呼ぶようになったのだが、それはともかく、彼の髪は、殆ど顔を覆っている。靴は履かず、はだしである。手には竹刀。学ランはボロボロ。そして、目つきが、凶悪犯系である。

 
僕ら(15歳と16歳のガキ)は、恐怖と混乱で恐慌をきたし、しばし固まっている。すると、

 
「おめぇら、何してんだ。聞こえねえのか、ゴルァ」

 
きゃーーーー。
こわいよーーーー。
何が始まるのぉ?

 
「廊下に並べ」
廊下に並ぶ。

 
「歩け」
歩く。

 
こうなったら、言われたことを素直にするしかない。「踊れ」と言われたら踊るしかない。ちょっとでも遅れたり乱れたりすると、竹刀が飛びかかる。

 
僕らは、講堂へと導かれた。ここは、あの晴れやかな入学式が執り行われた、我々にとっては、数少ない思い出深い場所の一つである。これで、体育館倉庫裏とかに連行されたら、恐怖も数倍、泣き出す奴も出たかもしれない。まだ入学したてで、右も左もわからない、新一年生である。しかし、講堂ならば、一度経験しているし、何よりも、「私的」ではなく「公的」な匂いがする。

 
多少はほっとしつつ、講堂に一歩足を踏み入れると、僕らは再び固まった。

 
そこは、既に、「講堂」ではなかった。そもそも「講堂」というのは、「講話をありがたく聴く場所」である。しかしそこは、全面に暗幕が下ろされ、我々が座らされると思しき空間の周囲には机と椅子でバリケードが張られ、そのバリケードの外側には、夥しい数の二年、三年生が、凄まじい熱気と興奮を身に纏い、血走った目をこちらに向けている。

 
講堂というのは「広い部屋」なのであるが、その入口は一つである。その唯一の入口は、バリケードの始まりと終わりになっている。そこでは、バリケード間の幅が極端に狭まっているが、「部屋」に入るためには、そこを通り抜けなければならない。狭い幅の「入口通路」のすぐ外側には、狂気に満ちた上級生たちが十重二十重に連なり、身を乗り出し、拳を振り回し、怒号と雄叫びを上げ、待ち構えている。あたかも、プロレスの入場口、あるいは相撲の花道、のような風情である。ただし、大きく異なるのは、「待ち構えている側」が「入場してくる側」に対して、「ぺたぺた触る」のではなく、「殴りにかかる」という状況である。花道とは反対で、ここでは、「迎える側」が「主」であり「強」である。言うまでもなく、怨恨だとか復讐だとか、そういう湿っぽい話ではないのだが、それでも僕らは、ボコボコにされながら、その関門を、命からがら、抜けた。

 
このギャップが、また僕らをビビらせる。午前中の、あの笑顔と、午後の、この狂気。同一人格なのか?あのニコリの裏には、ニヤリがほとばしっていたのか?加えて、場内は暗幕で覆われて暗く、ほんのりと壇上のみ、見えている状況である。我々が、状況を理解する間などこれっぽっちもないままに、場内で座らされる。真っ暗な中で、ドン・ドン・ドン。。。という、不気味な太鼓の音が響く。

 
我々の入場が完了した頃、太鼓と共に、上級生たちは皆、我が高校の応援歌を歌い始める。うちの高校には、応援歌が10曲以上ある。それを順番に歌い始める。我々は正座でそれを聞かされる。…いや、聞かされるだけではない。そのうち、周りの上級生たちから、

 
「歌え」

 
という、なんとも理不尽な声がかかる。

 
歌詞もメロディも、知っている筈もなく、「歌え」と言われたところで、歌える訳がない。しかし、そこに「理」など存在しない。

 
「何で歌わねぇんだ、こらぁ」
「す、すみません」
「謝ってんじゃねー。歌えー」
「し、知らないです」
「何で知らねぇんだ、このやろー」
「まだ入学したばかりなんで。。。」
「うるせー。言い訳すんなー。踊れー」

 
「踊れ」と言われたら踊らねばならぬ。しかし、まだ少しだけ残っている理性が、「なんで踊らねばならぬのだ?」と問いかける。その間は混乱して、言葉は出ない。

 
黙っていると、

 
「黙ってんじゃねー。おめぇ、立てー」
立つ。

 
「何立ってんだ。座れー」
座る。

 
「座ってんじゃねー。立って踊れー」
踊る。

 
「踊ってんじゃねー。廻れー」
廻る。

 
「廻ってんじゃねー。拝めー」
拝む。

 
この辺になると、泣き出す奴も出てくる。アタマも朦朧としてくる。しかしその間も、途切れることなく、次々と、応援歌が大音声で、上級生たちによって、歌われ続けている。全部で何曲あるのかも分からず、「終わり」がどこなのかも全くわからない。もはや「理」など吹っ飛び、トランス状態になっている。

 
どうも、入団式も佳境に差し掛かったらしい。…というか、「入団式」という意味さえ、まだ、理解していないが。「佳境」を感じたのは、彼らの態度が、急に変わったからである。

 
(これは後に知ったことだが)勝ったときにしか歌えない「勝利の歌」、そして「凱歌」に続き、校歌を歌い終わった上級生たちは、何やら静粛かつ厳粛な態度に豹変した。今まで散々、狂気をほとばしらせ、叫び、歌い、喚きたおしていた彼らが、何故か急に、水を打ったように鎮まり返った。一糸乱れぬ統制の如く、しわぶきひとつ、聞こえない。そして彼らの視線は、全て、壇上に注がれている。

 
もはや、夢か現か解らぬアタマで、改めて壇上を見ると、何やら一人の、髭をはやした人が、ゆっくりゆっくりと、歩いてくる。この牛歩の如きゆっくり歩きにも、誰も茶々を入れることなく、見守っている。

 
髭の人は、本当に数分かけて、壇の中心に到達した。そしてゆっくりと、威厳を持って、全体を見回した。その間、この夥しい群集は、人工物のように、身動きひとつしない。

 
しばしの呼吸の後、彼は高らかに宣言した。

 
「これを以って、一年生の、二高応援団への入団を許可する」

 
上級生たちはそれに呼応して承認の意思を表明する。

 
「よぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉし!!!」
(註;うちの高校では、返事は全て「よーし!」という)

 
入団式、終了。我々はこの瞬間から「二高生」になった。

 
さて、翌日から、朝7:30からの応援練習が始まる。各クラス担当の、応援団員がいて、彼らが、一年生をクラス毎に、集団指導する。我々は、生徒手帳の後ろに載っている応援歌の歌詞を、メロディも知らないのにも関わらず、当日までに丸暗記してこなければならない。数日で一曲、約一ヶ月で全曲をマスターする。暗記してこない奴には、容赦なく鉄拳が下り、ボコボコにされるので、僕も泣きながら、必死で覚えたものである。

 
応援団にとって、一年生に応援歌をマスターさせることと共に重要なことは、彼らにこの意味合いを含ませることである。はっきり言って、僕らには、この時点では、何が何やらさっぱりわかっていないのだ。然し、

 
「(仙台)一高は、えて公である」
「えて公生はサルである」
「我々はサルを撃破しなければならない」

 
という、至って単純かつ明快な論理に、僕らは次第に洗脳されていく。そうだ、そうだ、エテ公は倒さなきゃならないんだー!そして、それと共に、些か神秘的な行事&風聞が、我々のやる気を掻き立てる。各クラス担当の応援団員は、最初こそオソロシゲな存在だが、徐々に打ち解けてくる。我々が一番知りたいのは、入団式で、薄暗い中で一瞥しただけの、あの「応援団長@髭オトコ」のことである。僕らは何回となく、担当の先輩に聞いた。

 
「団長さんって、どんな人なんですか?」
「いや。我々もよくは知らないのだ」
「どこに住んでいるんですか?」
「滅多に姿は現さないからな」
「応援にも出てこないですよね?」
(何か学校の行事があったりすると、応援団は、エールを行うために、壇上に立つことが多い。然し団長は、定期戦の日まで公の場には姿を現さない)
「そうだな。でも出てこないけど、ちゃんと全て知ってるのだ」
「どうしてですか?」
「団長は、今、富士山の麓に籠り、来るべき対一高定期戦に備えて、修行を積んでいるんだ。でも、下界のことは、水晶玉を通して
ちゃんと見ている」

 
「団長」とは言え、普通の高校三年生である。ジャージを着て校庭も走るし、白衣を着て理科実験もする。コンビニでエロ本を見ることもある。しかーし、我々が団長の姿を拝んだのは、意識も朦朧とした、あの暗がりの中での一瞬だけである。本当に実在するのかさえ、わからなくなってくる。僕らはますます神秘的な香りにやられていくのである。

 
更に、定期戦が近づくと、「檄」という文が配られる。これは、漢文体のいかつい文章で書かれている。曰く、

 
「広瀬の川に居をなす我ら二高北稜男児は、茶畑に棲息せる猿軍団を撃破せんとする云々・・・」

 
これは、本文とは全く違ってて、ホンモノは、もっといかつく、もっと格調が高い。これを保存しておかなかったのは痛恨の極みだ。ちなみにこの檄文の考案は、毎年、団長と漢文の教師の悩みの種だそうで(笑)。

 
兎に角、いやが上でも、気分は高揚する。もうその頃には、「エテ公ぶっつぶせー」の気運が、めちゃめちゃ高まってるのである。

 
定期戦直前には、「PR行進」という、一種の示威行動が行われる。一高二高の応援団員(我々一年生は「団員」でもあるから、当然、この行進に参加する)が、仙台の街を練り歩き、錦町公園(今は違うかも)を目指す。この時には、団長は富士山から戻ってきており、公園の真ん中で、一高の団長と相対し、互いにエール交換をする。そして「勝利の歌」を歌って、勝利を期す。

 
この「勝利の歌」は、練習ではなんぼでも歌えるが、実戦では、勝たない限り歌えない。いわば「勝利の象徴」である。二高の場合には、「紅蓮の旗は地に伏しぬ」というオリジナル歌詞を対戦校によって毎回変えるという趣向がある。然も、その変更箇所を絶叫するという、「勝利のカタルシス」を存分に味わえる歌である(一高の「勝利の歌」も同じ)。例えば、対一高の場合は、

 
「えーてこーのはーたーは、地ーにふーしぬ。そーれ、たたかーい勝てり、美酒をー、汲みてー、称えん・・・」

 
と、この「えーてこー」の部分を絶叫するのだが、これの予行演習を、このPR行進でするわけだ。

 
イクサが近づくと、二高新聞には「街の声」が載る。下馬評として、

 
「どうやら今年は一高の打撃陣が強力らしい(パン屋の親父)」
「今年こそ二高でしょう(コンビニのおばはん)」

 
等が紹介される。否応なしにテンションが高揚し、遂に「その日」が来る。定期戦は、TV中継もあるくらいの、仙台の伝統行事である。我々一年生は、県営宮城球場に集結し、声の限り、倒れるまで、応援をする。

 
…と、まあ、この一連の過程は、全く、Nationalistに近いものがある。…そう、Nationalist。これなのだ、今回の主題は!

 
ながーい前振りだ。長い、長すぎるよう。

 
実際に戦う当事者ではなく、単にそれを観戦し、応援する者の場合はどうなるか。応援集団とその背景が大きくなるにつれ、問題は複雑になる。たかがローカル、一高二高定期戦の場合ですら、我々二高生(勿論一高生も)は、「ロイヤリティ」を発揮して、燃えるのである。尤もこの場合、二高と一高とはまさに「好敵手」なので、例えば、甲子園予選県大会で、二高が敗れ、一高がまだ残っており、一高が三高と当たったりすると、言うまでもなく、我々二高生は一高を応援するのである。時には、一高側に乗り込み、一高の応援歌を歌い(実は知っている)、時には、一高のために「勝利の歌」を歌う。これぞ、まさに、美しい「好敵手」関係だと思うのだが、単に「美しい」とか言っていられない事態、時には死人さえでたりする事態がある。そう、footballである。

 
明日、2000年6月10日は、欧州においては、ワールドカップと同等あるいはそれ以上かも、といわれるくらい権威ある大会、「Euro2000」が開幕する日である。最近、BBCの特集番組で、イングランドチームの
歴史を振り返っていた。そこでは、顔は知っていたが、栄光のスタープレイヤーだったことは知らなかったGary Linekerや、現イングランド監督Kevin Keeganが現役時代、最盛期の鶴瓶にも負けないくらいのアフロだったことなど、かなり有益な情報を得ることができた。そして、印象的だったのは、1990年のワールドカップと1996年のEuro1996における、二度のPK負け(対ドイツ)である。このドイツってのは、よく当たり、必ず死闘になり、然しどうしても勝てない相手らしい。然も、両国は、フーリガンの先進国でもいらっしゃる。

 
そして、今度のEURO2000。くじを引いて、アタリを引いてしまったとき、ケビンキーガン監督は、

 
「あーあ、やってもぉた」

 
と思ったという。そう、また当たるのだ。然も、決勝リーグではなく、予選で。

 
フットボールで喧嘩が起きる国えげれす、フットボールで殺人も起こる国えげれす、普段はgentleでも、フットボールになると、途端に凶暴になる国えげれす。何が彼らをそこまでさせるのか。単純に、「発祥の地」というだけでは片付かない問題のような気がする。勿論、「フットボールなんて野蛮だわ」と言って見向きもしない紳士淑女が多いのも事実だが、フットボールがこの国の文化地図に占める役割は相当重要なものであることは間違いない。

 
歴史は繰り返す。独逸軍がえげれすに襲い掛かろうとした時、かのチャーチルは、国民に向けて演説し、大いに勇気を奮い立たせたという。ドイツチームと対戦すること数度、確かにフットボールの分は弱い。再び、St.George's Crossは地に伏すのか?美酒を汲み交わすことはできないのか?それとも、Three Lionsが凱歌を歌うのか。

 
決戦は6月17日(土)である。

 
--------------

 
4月某日、二年生になった僕は、二高の校庭にいた。太陽を浴びて、きらきらと輝く顔たちが正面にいる。そして、午後、暗幕の中で、狂喜乱舞が始まった。

 
「こらぁ、おめぇだ、おめぇ。立てー。踊れー。廻れーー!」

 
歴史は繰り返す。うーむ、いい言葉である。

【旧】えげれす通信_vol39:笑いの殿堂 (16/05/2000)

例えば、20:50になっても、まだ助さん格さんが闘っていたら、にっぽん中がざわめくのではないか。

 
いったい、マンネリというものは、一度軌道に乗ってしまえば、大変に偉大なものである。日本人の心象風景に深く刻まれているであろう「葵の紋所」は、決まったタイミングで決まった形で出てこないと、我々を不安な気持ちにさせる。いつもの出方であれを見ると、大抵の日本人は、安心するのである。

 
例えば、「サザエでございまーす」と聞くと、大抵の社会人は、「あー、日曜日も終わってしまった・・・」と暗くなりながら、食卓の魚をくわえるのであろう。

 
例えば「パトラッシュ」と聞けば、それだけで、目がうるうるしてしまう。

 
これらみな、「反射」的な反応である。人間の感情は、ある程度の反復的過程を経ると、自分の中に、内面化されてしまうらしい。然もこの「反復過程」による反射は、割と柔軟性のあるものらしく、多感な幼少時代に経験したものだけが得るとか、「三つ子の魂百まで」的な厳格さをもつもの、などではないらしい。

 
倫敦在住の人なら誰でも知っているミニコミ誌の一つに「LONDON族」というのがある。この月刊誌5月号の表紙は、あの「藤井隆」であった。

 
この月刊誌は、僕が倫敦に着いた頃に発刊されたもので、僕は最初から読んでいる。そしてこの表紙モデルは、一般から募集している。我々の間では、誰か応募しようという話もあったが、最近では、割と、有名人が多くなってきた。坂本龍一とかのときもあった。今回、何故、藤井隆なのかといえば、吉本が本日(と明日)、倫敦公演を行うのである。「LONDON族」では、前もって彼にインタビューを敢行したらしく、今号のメイン企画になったわけだ。

 
藤井隆ってのは、昔はめっちゃ下っぱであった。大阪ローカルの「テレビのツボ」というMBSの深夜番組にちょこっと出ていたのを知っているけれども、その時は大しておもろい奴ではなかった。その後、新喜劇に出るようになったけど、今、一世を風靡している「オカマ」ネタなども、当時はどちらかといえば、見ていて「痛い」系であった。しかし、まあ、それは兎も角、今では、歌を出したり、ミュージカルに出たりと、日本では売れまくっているそうな。

 
この記事を読んでみると、当の藤井隆は兎も角として、僕にとっては懐かしい名前が沢山出てくる。僕は、大阪暮らし8年間で、真性の「似非関西人」になるべく、色々な修行を積んだ。そしてその核となるのが、「新喜劇」を見ることであった。初めての体験は、一年目、なんばグランド花月(以下NGK)に行ったときである。

 
演目は確か、「圭修」(清水圭和泉修)の漫才、「ちゃらんぽらん」の漫才、「いくよくるよ」の漫才、その他数組。そして、新喜劇は、桑原和男池乃めだか内場勝則、未知やすえ、末成由美島木譲二井上竜夫、という、当時の基本布陣であった。

 
僕にとっては、漫才はまだ知っている人たちだし、何度もテレビで見ているので、めちゃめちゃ笑えた。・・・そう、初心者だとしても。

 
ただ、新喜劇は、自分が周りについていっていないことに気づいた。はっきりいって、何がおもしろいのかわからない。後に友人たちに聞くと、彼らが言うことは皆同じである。

 
「来る、来る、、来る、、、来たぁ!いう感じ」


わからん。何で「わかっていること」がおもろいねん。

 
然し、環境は人を変えるのである。いや、人は環境に同化してしまうのである。二度、三度とNGKに行くうちに、さらに、土曜の昼12時の4チャンネルを毎週録画して、新喜劇を繰り返し見ているうちに、僕は知らず知らずのうちに、「おもしろさ」を体得していった。水戸黄門で、紋所が来るのがわかっているのに、いざ、来た瞬間、「きたー」と思うように、新喜劇のギャグも、「来る、来る、、来る、、、来たぁーー」なのである。「わかっていること」が、おもしろい。

 
今回、藤井隆の記事を読んでみると、その当時の名前が沢山出てくるので、僕は懐かしさで一杯になっていた。いや、懐かしいっていうよりも、名前を見ただけで、色々思い出されてきて、思い出し笑いをしてしまった。僕の先輩で、当時、僕にこう言っていた人がいた。

 
「めっちゃおもろい奴はな、名前聞いただけでわらかしよる」

 
視聴側としてのこの極意に達するのは、当時、なかなか困難であると感じていたが、現在の僕は、その域まで達していたらしい。名前を見れば、顔が浮かぶだけではなく、自然と「シーン」が脳内を流れる。例えば「辻本」と名前があれば、

 
辻本「こんちわ」
桑原「あらまぁ、初対面やのに、この人無作法やわぁ」
辻本「何がですのん」
桑原「何がって、あんた、無作法やっていうてんねん」
辻本「だから、何がですかっていうてるんですわ」
桑原「あんた、なんやのん。しゃべりながらパンくわえて」
辻本「パンなんかくわえてないですよ」
桑原「くわえてるやないの。ほらここに、、、」
そう言って、桑原、辻本のアゴを触りもって
桑原「アゴや。。。」
(註:辻本茂雄アゴが出ている)

 
と、一連の動画が自動的にアタマに浮かぶ。更に、

 
桑原「(アゴや。。。)」
辻本「何でヒソヒソ声やねん!」

 
という展開も自動再生される。どうやらこの「似非関西人」も、吉本の笑いの回路は、既に「反射」の域に達したと見える。

 
その吉本が、我らが倫敦に来るのである。然も、出演者が凄い。最近の新喜劇には、ベテラン勢はあまり出なくなってきているし、出たとしても、ベテラン勢同士の絡みはあまり見られなくなってきているから、

(出演)
間寛平
内場勝則
辻本茂雄
池乃めだか
島木譲二
末成由美
島田珠代
中山美保
井上竜夫
未知やすえ
藤井隆

ジョニー広瀬(マジック)
トミーズ健トミーズ雅(漫才)

という、この、堂々たる布陣を見たら、是が非でも行きたくなってきた。

 
当日。前売り自由席を取っていたので、開園一時間前くらいで大丈夫かなと思って、それまでパブで一寸飲んでから、会場の前まで行った。するとそこには大行列がある。しかも、なんというか、並んでいる人のキャラが、人種が、放つ光が、所謂「倫敦のニッポン人」とは大きく異なっている。

 
喩えて言うならば、NGKの開園前の行列から、

 
「団体のおばちゃん」
「仕出し弁当を持っているおばちゃん」
「551の豚マンを持っているおばちゃん」
「たこ焼きの舟を持っているおばちゃん」

 
これらを差し引いた、くらいの感じかな。

 
ここが難波ならば、それでも良い。しかし、ここは、倫敦である。どことなくスノビッシュで、どことなく気位が高く、どことなくシュッとしているニッポン人しか存在していない倫敦である。背後を振り返れば、そこには「通天閣」ではなく、「ビックベン」が聳える倫敦である。

 
いやはや参った。こんな人たち、倫敦に棲息していたのか。普段、どんなところにいるんだ?三大在住である、「駐在員系」「留学生系」「芸術系」は、基本的に、こんな空気感は出さないはずだろう?あの、いつもの「オスマシ顔」はどうした?!並んでいるみんなは、顔が緩んでいるぞ?

 
一時間前で、既に200人は並んでいる。当日券は売り切れである。開園一時間前に並び始めた僕らの位置は、行列全体では、半分より一寸前くらい。行列を見てみると、案の定というべきか、殆どが日本人である。聞こえてくるのは、案の定というか、やはり関西弁である。思うに、客層は、大きく、

 
「吉本経験者」
「吉本初心者」

 
に分かれると思われる。中でも前者は、この公演の詳細を見たときに、きっとこう思うに違いない。

 
開場 19:00
開園 19:30
自由席 £20
指定席 £40

 
「誰が指定なんて買うねん。倍やないの。そんなん、吉本かて、『売れたらもうけもん』と思ってんねんで。自由席に決まってるやん。ほんで、みんな自由席買うから、一時間以上前に行って、並んどかなあかんで」

 
後者は恐らく、こう思うに違いない。

 
「えっとぉ、やっぱり落ち着きたいから、指定席とりましょう」
「私は自由席でいいんだけど、19:00開園って書いてあるし、10分前に行ったらいいかなぁ」

 
果たして、僕の付近に並んでいる、行列の前方にいる人たちは、ほぼ関西弁トークを繰り広げ、後方にいる人たちは、標準語でしゃべっている。

 
返す返すも、この日本人の数はどうでしょう。倫敦の中心ピカデリーには、その名も「Japan Centre」という、いわば、日本人の「巣窟」のようなところがある。そこは、チケットから食料品まで、まあ何でも扱っていて、完璧な「日本」である。ただし、同時に、そうした「スかした」(笑)、ニッポン人の「巣窟」でもある。いずれにしても、ジャパセンに行けば、恐ろしいほどの日本人率に遭遇することになるのだが、今日のあそこの、あの日本人率は、その比ではない。

 
タクの運ちゃんは振り返る。
BTのエンジニアは口笛を吹く。
隣のパブで飲んでいるおっちゃんたちは、驚愕の表情でこちらを見る。

 
実際、そこここで、

 
「や、加藤さんやないですか」
「あ、部長さんも来てはりますよ」

 
と挨拶を交わす背広組とか、

 
「せんせ、この列、自由席みたいやでぇ」
「あっちちゃうん?」

 
とあちこち走り回るジャパンスクール小学生組とか、

 
「あんた、きとったん?」
「あんたこそ」

 
と言う学生組とか、辺りはさながら「社交界のパーティー会場」のような観を呈してきた。倫敦中の日本人はすべて、ここに集まっているのではないかと思うほどである。尤も僕は、知った顔には二人しか会わなかったが(会ったんかい)。そして終いには、

 
「お、あっこにガイジンおんで、なんでおんねん」

 
みたいなノリになってきたことは言うまでもない。

 
さて、開場である。重厚な内装と、ドーム型の天井、パイプオルガンも置かれ、壁には彫刻が多数あって、とても趣のある建物に入る。ここは教会なのだ。ただし、その教会の中央にある、特設ひな壇には幕が張ってあり、その横には、「吉本」の字と共に、「くいだおれ人形」の絵がある。

 
くいだおれ@教会

 
まぁ、アリかな。

 
会場は瞬く間に埋まり、立ち見は出なかったけど、完璧に満員状態である。いやはや、まったく凄いことである。そして19:35、ここに「吉本 in LONDON」の幕が切って落とされたのである。

 
しょっぱなはトミーズの漫才であった。掴みは大事である。流石にトミーズ、雅は冴えていた。こてこて、基本形のどつき漫才で、会場は盛り上がる。

 
健「いやぁ、うちら結構心配していたんですわ。3割くらいは外人さんやろって」
雅「ハハ。どこがやねん!」

 
20分強の漫才に続き、今度は、ジョニー広瀬のマジックである。NGKなら、マジックはある意味「息抜きタイム」だけど、ジョニー広瀬ならば、マジックでもおもしろい。特に子供たちにウケが良かった。鳩を出して、バタバタさせてから、わざと落として、

 
「いや、エサいらん鳥ですねん」

 
とか、色々なものを出してみては、それを客席に投げつける、等の基本ネタをこなして、無事終了した。帽子の中から出した林檎が、えげれすの代表種「COX」だったので、僕は個人的におかしかった。

 
さて、そこからが真骨頂、新喜劇である。今回のは、作・演出、ともに寛平らしい。あらすじは割愛するけれども、今日の新喜劇は、6月4日に、読売テレビ系で放映するらしいので(15:30から90分)、ぜひそちらでどうぞ。

 
今回の新喜劇は、NGKのとは違って、出演人数が少ない。基本的に若手がいないので、最初からどんどん、大物が出てくる。然も、トータルで一時間半以上もある(三幕)。なので、各人の持ちネタがかなりたくさん出てくるし、絡みもひっぱるひっぱる。

 
ライトが点いて、まずそこにいたのは島田珠代だった。旦那の内場勝則との絡みで、会場は爆笑である。矢張り珠代の絡みは分かりやすい。その後、杖をもって、寛平が登場する。お決まりの、池乃めだかとの絡みも、かなりひっぱる。ただし、間延びすることなく、適当な間隔でギャグが入るので、流れがスムーズである。今回の演出は相当上手かったと思う。

 
それにしても、ネタがおもしろいのは良いけど、観客の反応も、これがまた、結構おもしろい。上で分けた分類を、もう少し細かく言うと、

 
第一カテゴリー「主に関西系の吉本経験者」
第二カテゴリー「主に非関西系の吉本初心者」

 
以外に、もう一つ、

 
「多分吉本なんてさっぱり知らないんであろう、海外暮らしが長い、駐在員の子供たち」

 
という第三のカテゴリーがある。

 
僕は、似非ながらも、「反射」の域には達しているという自負があるので、例えば、内場・珠代夫婦の父親である寛平が海で遭難したという知らせを聞いた珠代が、

 
珠代「あなたー、大変よぅ」
内場「どないしてん」
珠代「お父さんが、事故で亡くなったって・・・」
内場、無言無表情で立ち上がる。
内場、無言無表情で隣の部屋に消える。
内場、無言無表情で再び隣の部屋から現れる。
内場、無言無表情で湯呑みを持ってテーブルにつく。
内場、無言無表情でお茶をすする。
・・・
内場「・・・えぇぇーーーーー?」
(爆笑)

 
なんていう「定番」も、最初に彼が立ち上がった瞬間から、もはや笑ってしまっているわけだ。あるいは、めだかが背広を脱いで猫をやる前に、ネクタイをもったら、やることは一つである。

 
「オレの背とおんなじや」

 
これも、矢張り、ネクタイを外した瞬間から、既に笑けている。そしてそういう「漏れ笑い」があちこちから聞こえてくるということは、彼らは、この、第一カテゴリー「経験者」なんだろう。では、第二のカテゴリーはどうなるか。彼らの反応が一番明確に表れたのは、藤井隆である。

 
演者が、一人、また一人と、現れるときには、拍手や声援が上がるのは当然である。そしてそれは、人気と実力と、あとは登壇のタイミングによって、それらの量と質とが異なる。しかし、彼の出てきたときの客席の反応といったら・・・。いやはや、なんというか、「黄色い声」とでも言うのかどうか。まぁすごかった。全く以って「にっぽん人」だなぁ、と強く感じた瞬間であった。

 
新喜劇は、大方の顔見世が終わり、各々の絡みに入っていった。

 
寛平(猿)とめだか(猫)の絡みは、かなりの時間を取って繰り広げられ、僕は涙で前が見えなくなるほどに笑った。そして最後にあのキメを、ここは「教会」なのにも関わらず、やる。

 
交尾@教会

 
ま、いいでしょう。

 
猿の寛平が、猫のめだかにバックから刺し、めだか、果てる。

 
イく@教会

 
まぁね。繁栄の為。

 
辻本がやってきて、珠代と絡む。

 
珠代「あーん」
辻本「なんやねん」
珠代「ああーん」
辻本「ぶっさいくやのぉ、お前誰やねん」
珠代「うーん、ああーん。好き」
辻本「やめい」
珠代「あーん、うーん、いやーん。チーン」
辻本「お前、旦那の前でチーンはないやろ。はよこっち来い」
辻本、珠代を壁へ。珠代、壁に激突。
珠代「オトコなんて、シャボン玉」
(爆笑)

 
チーン@教会

 
まあ、ええやろ。・・・いや、ええのか?

 
島木譲二は、いかつい顔をした役者であり、もとMBSの警備員をしていたという経歴を持つ。彼のギャグ(言う方)は、基本的に、おもしろくない部類に入るのだが、やる方のギャグは、まぁ吉本を代表するものといっても差し支えないくらい有名である。ご存知「大阪名物パチパチパンチ」。彼は、内場に絡ませると、おもしろい型ができあがる。

 
島木、やってくる。
内場、それに気づき、そぉっと忍び足で部屋の隅へ。
珠代、同じくそぉっと忍び足で部屋の隅へ。
内場、ゆっくりひっそりうつ伏せに。
珠代、ゆっくりひっそりうつ伏せに。
・・・
内場「熊や、死んだフリせぇ」

 
さて、彼は、ここ倫敦でも、大阪名物パチパチパンチをやってみせた。

 
島木「よぉ見てみぃ。これが倫敦名物、パチパチパンチや」

 
パチパチパチ

 
内場「そんな、正面だけやらんと、左のお客さんにも見せな」
島木「よっしゃ、ほんなら」

 
パチパチパチ

 
内場「そんなん言うたら、右のお客さんにもせな」
島木「よぉ見てや」

 
パチパチパチ

 
内場「二階にもお客さんいてんねんで」
島木「パチパチパンチやぁ」

 
パチパチパチ

 
内場「次、三階」
島木「やったんでぇ」

 
パチパチパ・・

 
内場「あ、三階あれへんわ」

 

くーーー。ベタがたまらん。

 
案の定、次があった。

 
内場「どないなきっかけで、それ、やろう思いはったん?」
島木「どないもこないもあれへんがな。会長(寛平)が好きやったんやー」
内場「あ、そう。ほんなら、もうええからあっち行って」
島木「いや、まだやねん。会長の好きやったん、まだあんねん」
内場「なんやねんな。はよやって」
島木「これが、ポコポコヘッドや!」

 
彼は、灰皿を二つ出して、頭にポコポコぶつける。

 
島木譲二は、大きな紙袋を持っている。・・・ということは、まだ、ある。

 
島木「最後にもう一つ。カンカンヘッドや!」

 
これらはまぁ、「おつけもん」みたいなもので、なければないで、なんか寂しい。しかし、主食では決してないので、三つも見ることはほとんどない。今日は倫敦公演ということで、えらく張り切ってはるらしい。すると・・・、ここで一番反応したのが、先ほどの、第三カテゴリーであった。子供たちは、とっても喜んでいるのである。矢張り、視覚的にわかりやすいのか。

 
「カンカンヘッド」の「カンカン」は、料理屋が使う油が入っている、四角い、カネで出来た缶である。叩けば潰れるけど、かといって、柔らかいものでもない。彼は、汗だくになりながら、それを頭にぶつけ、そのカンカンをベコベコに潰して見せた。子供たちは大はしゃぎ、コーフンの坩堝である。なんというか、島木譲二にあれほどの拍手歓声が上がった場面を、僕はこれまで、一度も見たことがない。当の島木譲二もまた、若干面食らっているではないか。

 
例によって、内場が、定番の突っ込みを入れる。

 
内場「そんなん、その平らなとこやったらできるやろけど、その角のとこでやってぇな」
島木、ひるむ。
内場「なーんや、でけへんのかいな」
島木「よっしゃ、やったるわい」
島木、構える。

 
僕らは結末を知っているし、知らなくても、大人であれば大体、予想はつく。しかし、純真な子供たちは、本気で心配する。なんと、会場には、本気の悲鳴があがる。「カンカンヘッドに悲鳴」というのも、NGKではありえない状況だ。ここですかさず内場が、絶妙なアドリブを入れる。

 
内場「そんな。やれへんって」
(爆笑)

 
島木「やったるで」
再び構える。
会場、再び悲鳴の嵐。
僕には、悲鳴が微笑ましい。

 
島木、やるフリをして、寸止め。
島木「・・・でけるかい!」

 
彼が舞台から袖に下がるときのあの歓声を、僕は忘れることが出来ないのである。第三カテゴリーの子供たちにとっては、この演芸は、大変印象に残ったらしい。彼らは、この先、外国を転々と移動し、ニッポンの心象風景をあまり持たないままに大人になっていくのだろうけど、小さい頃に見たポコポコヘッドの、一寸怖いおっちゃんの画は、深く心に刻まれたのではないかな。

 
長丁場の新喜劇も無事に終わった。そこにはかなりのアドリブがあったのだが、恐らく彼ら自身もノってきていたんだろうと思われた。後説で、内場が言う。

 
「いや、大阪より、お客さんの反応よかったですわ」

 
これは、あながち、お世辞ばかりとは思えないくらいの、実際の会場の盛り上がりだったと思う。寛平曰く、

 
「一寸見たところ、会場は大体、日本のお客さんやねんけどな。でも、あの外人のお客さん、ずぅーーっと笑ろぉてはんねん。・・・わかっとんか?」

 
辻本続けて、

 
「でもこっちの外人さん、ずぅーーっと怒ってはんねん」

 
そら、猿猫@教会をはじめ、ガイジンにはタブーのシーンが多すぎでしょう。辻本曰く、これまでもいろんなところで、怒られてはるらしい。確かに、ガイジンの反応は見たかった気がする。

 
大満足のうちに、幕が引け、皆が出口の方へぞろぞろ移動しかけたとき、ふと舞台を見ると、袖から島木譲二がそっと現れた。彼が手に持っていたのは、あの凹んだカンカンである。彼は近くにいた若者に、そのカンカンをプレゼントした。

 
・・・僕の近くの席にいた小学生くらいの女の子が、それを見ていた。彼女はとっても羨ましそうに、キラキラと目を輝かせて、

 
「いいなーーー」

 
僕は、何ともいえないあったかい気持ちになって、会場を後にしたのであった。

【旧】えげれす通信_vol38:疑惑 (18/04/2000)

今、世の中的には、イースター休暇中。今週末に、「一応」キリスト教国のえげれすでも、ビックイベントと目される、「イースター」がやってくる。その前後にある、金曜日(グッドフライデー)と、翌月曜日は、共に、「バンクホリデー」という、何の変哲もない名前が冠されている祝日である。要するに、週末皆休日なわけで、この休日の少ない国にとっては、貴重な連休である。ただし、そもそも休暇中である学生にとっては、何の恩恵もない日々である。

 
うちのオオヤは、特に仕事もせずに、ひがな一日ぶらぶらしている。そういうヤカラにとっても、この貴重な連休の恩恵は大してないはずである。ただ、それと関係があるのかどうかは兎も角として、うちのオオヤは、今、韓国に里帰りをしている。…従って、この家は、僕の天下なのである。

 
こんな嬉しい状況はまたとないので、僕は、奴の帰省話を聞いたときに密かにかなり喜んだ。

 
「めちゃめちゃしたる・・・」

 
奴の帰省目的を知る由もないが、巷の噂では、

 
「奴は、韓国人と偽っているが、実は北の人間である。帰国は、諜報本部への報告のためである」

 
そして、いまいち毎日何をしてるのかわからない奴の生活パターンについては、

 
「テポ◯◯製作」

 
という噂が、まことしやかに囁かれている。そして、そういうことであれば、僕の部屋も、また、

 
「盗聴されているに違いない」

 
ということに、当然、なる。

 
先日出奔した、先の同居人、李さんも韓国人である。彼が遂に出て行くことになった主たる原因は、二人の間で繰り広げられた「大規模な口論」であったらしい。しかしその内容についても、数々の疑惑がある。例えば、

 
「口論で仲違いしたと見せかけて、実はそこいらに潜伏」

 
等と、物騒な噂はつきない。

 
それはさておき、兎にも角にも、奴は今、不在である。ということは、やりたい放題である。ノメヤウタエヤの大騒ぎが可能である。僕は、来るべき輝かしい未来を胸に秘めながら、朝早く、ヒースローに向かうオオヤを笑顔で見送った。

 
「自由」という二文字が、アタマをよぎる。ここは、名実共に、オレの城なのだ。さて何から始めるか、そういう楽しい思考を繰り広げていたとき、玄関が開く音が聞こえた。

 
僕は、常日頃から、なるべくオオヤとは顔を合わさないようにしているので、このときも、部屋から出なかった。忘れ物で戻ってきたのかな。しかーし、夕方になっても、なんとなく微妙な気配が、オオヤの部屋から聞こえてくる。

 
「奴のフライトは、午前中だった筈だ」

 
僕は、混乱した。

 
踊らされている?
情報操作?
偽装工作か?

 
夜になっても、何となく漂ってくる気配に、僕は耐えられなくなり、トイレに行く振りをしつつ、何となく様子をうかがいに行った。すると、同時に、オオヤ部屋のドアがギーっと開く…。

 
ぎょっとして見ると、そこにいたのは、えげれす人のおっちゃんである。しかもこの人、なんか前に見たことあるぞ。

 
しゃべってみると、オオヤの友人のフランクであった。オオヤは、自分の部屋の情報の漏洩を怖れて、見張りをおいたのか?いずれにしても、彼は今回、オオヤ部屋に泊まっていくらしいということを聞いて、僕はかなりの程度失望した。誰であれ、他に人がいれば、バカ騒ぎは流石にできない。

 
…とまぁ、これは数週間前の話である。それ以来、フランクは、時々やってきては、泊まっていったようである。僕は、そういうわけで、また以前通り、なるべく家人と顔を合わせないようにする生活を続けた。

 
さて、これは昨晩のこと。僕はいつものように、夕方から、台所で料理をしていた。すると、玄関が開く音が聞こえて、フランクが入ってきた。彼は、Take Awayのカレーを買ってきたらしく、皿に開けると、キッチンで食い始めた。

 
こんな場合、もしこれがオオヤならば、奴は、僕が台所にいるときには、決して入ってこないのだ。仮に入ってきても、用事を済ませると、出て行く。互いに干渉しないというのは暗黙の了解になっている。然し、フランクは、客人である。加えて彼は、えげれす人である。社交性にかけては、あるいは、感じ良さにかけては、他国人に決して引けを取らないえげれす人である。この家の暗黙の了解は知らないだろうし、また、その前提となっている関係性もそもそもないので、彼はテーブルに座って、食い始めた。

 
僕は内心困ったなと思った。これから先、まだまだ料理には時間がかかりそうなのだ。久しぶりに買い物に行って、久しぶりにリキ入れて料理をしようと思った矢先のことだから。

 
然し、僕は、こういう場合には、社交的に振舞うことにしている。相手はオオヤではなくフランクである。ここはフランクにいかねばならぬ。

 
すると、話してみて気づいたのは、オオヤの友人の癖に、然もオオヤのことを「彼はいい奴だ」と言っている癖に、フランク自身がかなり「いい人」であることが分かった。

 
おいおい。「ルイ友」はえげれすには存在しないのか?!

 
彼は、一通り自己紹介をした。それによれば、

・自分は、スコットランドアイルランドの血を受け継いでいるが、生まれはイングランドである。
・嫁はラトビアの女性だった(12年前に亡くなった)。
・一男二女がいて、現在は娘の家に同居。
・義理の息子はトルコ人
・甥は日本人の女性と結婚した。
・嫁が亡くなった後、中国人の女性と暮らしていたことがある。

 
いやはや、倫敦では珍しくはないとはいえ、物凄いファミリーヒストリーである。国際結婚だらけじゃないか。

 
「でも、僕は、国籍や肌の色で偏見を持ちたくないんだよ。racismはラビッシュだ」

 
と、まぁ、100点満点の発言をする。とてもじゃないが、あのオオヤの友達とは思えない。オオヤは、

 
「オレは差別をする。差別のどこが悪い」

 
と高らかに宣言しているようなヤカラである。そんなだから、フランクはとっても、尊敬に値する人物であると僕は思った。然も、ユーモアのセンスはあるし、話は面白い。甚だ社交的であり、甚だ気遣いが行き届き、甚だ感じが良い。それでいて、亡くなった奥さんの話になると、とっても遠い目をして、

 
「彼女は素晴らしかった・・・僕には過ぎた女性だった・・・」

 
そして、

 
「僕は、彼女を愛していた。とても、とても・・・」

 
うう。なんて素敵なおっちゃんや。惚れてまうやろ。歳は62だと言っていたけど、彼に限らず、えげれすの年配の人たちは、とってもパートナーを大事にする。チャーミーグリーンのCMは、日本では妙味があるけど、この国では、そこらじゅう、チャーミーグリーンだらけである。珍しくも何ともない。

 
フランクの、奥さん回顧談は、少々くどいところはあったけれども、僕は相応のrespectを以って聞いていた。

 
何度目かのときに、彼は、またその奥さんのことに触れ、

 
「僕の人生は成功だった。素敵な両親。素晴らしい妻。最高の子供たち。そして、4歳の孫。彼女はとってもとってもゴージャスなんだ」

 
そう言って目を細めた後、

 
「然し、12年前・・・」

 
と言って絶句した後、そっと泪を拭いた。

 
なんだなんだ?!
何があったんだ?

 
なんと返したら良いかわからなくなり、なんとなく場もしけてきたので、話題を転換した。僕は、行ったことのあるえげれすの街の名前を挙げてその印象を語り、彼も仕事であちこち行った経験があるとかでそれらの印象を語り、なかなか盛り上がった。そして、シェフィールドの話になったときに、僕がふと、

 
「こっちに来るまで、金の方がいいと思っていたけど、こっちに来て、この国の銀細工が如何に素晴らしいかに気づきましたよ」

 
というと、彼もノッてきた。

 
「僕も銀が好きだよ。『ロンドン・シルヴァーヴォルツ』には行ったかい?」
「勿論。あそこは素晴らしいですね。小さい店が集まっている、市場ですが、見ているだけでも気持ちいいものです。然もいいことに、それは僕の大学のほぼ隣にあるのですよ。だから、僕はしょちゅう覗きに行っています。…たとえ大学には行かなくとも、ね」
「はっは。それはいい。僕のこの指輪。こっち(左の薬指)は、妻から貰ったものなんだ。だいぶ昔だけど。で、こっち(右の薬指)は、二年前くらいに…ただし、男からプレゼントされたんだけどね(笑)」
「はぁ。僕も銀の指輪は好きで、時々買っています。残念なことに、まだ女性からプレゼントされたことはないですがね」
「はっはっは。まぁ、そのうち、そのうち(笑)」

 
フランク、良い奴すぎるぞ。オトコからも指輪をプレゼントされるなんて、きっと、友人も多いに違いない。なんでオオヤの友人なんだ?共通項が全くないではないか。何が二人を結び付けたんだ?

 
話していくうちに、彼は、えげれすの名門、ダーラム大学を出ていることがわかった。この国では、大学卒ってのは、日本みたいにありふれているものではない。それだけで既に、階級は「ミドルクラス」に位置することになる。道理で英語も、アクセントが綺麗である。

 
そんなこんなで、ひとしきり盛り上がりつつ、我々は結構飲んでしまった。彼は高血圧だとかで、酒量は自粛モードらしく、

 
「さて。これ一杯飲んだら、寝るとするか」

 
と言うし、こちらも「そろそろ」と思っていたので、

 
「そうですね」

 
と言って、最終着陸態勢に入った。

 
いやはや、今日は楽しかった。オオヤと飲んでいたら、こうはいかない。奴に話を合わせるのは、かなりの苦痛である。でも、フランクの場合は、話していて楽しいし、勉強になることも多い。そんなこんなを感じながら、僕は最後の一杯を飲み干した。

 
「さて」と見てみると、彼はまだグラスの中にウィスキーを残している。彼が、一寸だけぎこちない笑みを浮かべた。それが恐るべき予兆だと知る術もない僕は、

 
「いいですいいです。ゆっくり飲んでください」


と愛想よく言って、しばし待っていた。

 
なんというか、「そのタイミング」は、相撲で言ったら中入り後、野球で言ったら七回裏のふーせん飛ばし、何となく隙間が一瞬空いた感じであり、会話のラリーが途切れた、「エアポケット」的頃合いであった。ただ、その「途切れ」が、ある種の「意図」によるものだとは気づかなかった。

 
僕は、自分だけ先に寝床に戻るのも礼に反すると思ったので、彼が最後のグラスを飲み干すまで待っているつもりだった。

 
僕は、ただ、待ち、彼のぎこちなさは、その後も続いた。彼は時々、

 
「Are you all right?」

 
とか、

 
「Are you happy?」

 
とか、そして、

 
「Were you happy with me?」

 
とか聞いてくる。評価を気にするのはこの国の特徴だから、僕は一応、そして虚偽ではなく、

 
「いやいや、とっても楽しい時間を過ごしました」

 
と返していた。彼は、残りのウィスキーを嘗めながら、しかしやはり、何だかぎこちない。

 
彼のグラスの残りがが大方なくなったので、

 
「それじゃ、おやすみなさい」

 
と言おうかと、口を開きかけた刹那、その一呼吸前に、彼は、立ち上がり、そして「悪魔の言葉」を囁いた。

 
「...I can't sleep without you.」

 
ぎゃあああああああああああああ。

 
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僕の貞操がどうなったかは、ご想像にお任せするとして、いやはや、聞いてはいたけれど、この国の、そちらの「実情」を目の当たりにして、何と言うか、或る意味勉強になった。モノゴトはこういう風に展開するのか。人生でまったく初めての経験なので、予測とか全くできなかった。僕自身は、衆道には全く興味がないので、怖れを感じると言うよりは寧ろ、感心してしまった。それにしても、こんな劇的な結末を迎えるのであれば、写真を一枚撮っておくべきだった。オオヤの写真もまだ撮ってないし。

 
・・・と、色々思いを巡らせているうちに、はっと思った。何故、オオヤが、一見何の繋がりもなさそうな、彼を「友達」と呼ぶのか??

 
ま、まさか。

 
ぎゃあああああああああああああ。