えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】えげれす通信_vol41:荒れ野 (29/06/2000)

僕はそれほど文学好きなわけではない。気に入った作家はいるので、その人の作品をとことん読むという、全く以ってB型的ハマり方をすることはあるものの、広く深く、文学に勤しむ、などということはあまり無い。

 
僕が、「これ」と出会ったきっかけは、全くの偶然であった。日本で、さる大学の、さるゼミに参加していた際、輪読テキストが、テリー・イーグルトンという文芸批評家による「ブロンテ三姉妹」という本になった。ちなみにこのゼミは、人類学のゼミであって、文学のゼミではない。

 
お恥ずかしながら、僕はそれまで、ブロンテなる名前は全く知らなかった。しかし「三姉妹」には惹かれる。風間三姉妹にも惹かれる。

 
読んでみてすぐにわかった。そうか。えげれすの小説「嵐が丘」の作者だったのか。ただし、「嵐が丘」も、タイトルこそ聞いたことがあるが、読んだことはない。

 
僕は、ゼミの予習も兼ねて、映画「嵐が丘」のビデオを借りてきた。そして…感動の嵐に包まれたのであった。

 
このゼミでは、如何なることが問題になったのか。この小説が書かれた19世紀えげれすというのは、産業革命が急速に進行していた時代である。資本主義が発展する中で、貧富の差の拡大というある種の近代化と、女性が文筆活動を行うなど許さないという前近代的な風潮が併存していた時代である。そのような社会的背景が、色濃く、小説の内容そのものに反映されている。つまり、創作物というものは、社会から自由ではいられない、ということがテーマであった。

 
ゼミの輪読は終わったが、僕の、ブロンテ姉妹に対する関心は、日ごとに高まっていった。そこで、「嵐が丘」に続き、「ジェーン・エア」と、「嵐が丘」の別ヴァージョン、そして「ブロンテ姉妹」という映画を、続けざまに見た。

 
ブロンテ三姉妹と言われるのは、暗闇指令の部下たちなどでは当然なく、次の三人である。

 
シャーロット・ブロンテ(1816-1855)
代表作:「ジェーン・エア(原題"Jane Eyre")」

 
エミリー・ブロンテ(1818-1848)
代表作:「嵐が丘(原題"Wuthering Heights")」

 
アン・ブロンテ(1820-1849)
代表作:「アグネスグレイ(原題"Agnes Grey")」

 
彼女たちの没年を見ればわかるように、皆、恐ろしく短命である。これは、彼女たちの生い立ちと生活環境を参照すれば、納得できる。彼女たちは、自然の荒野の中で、ぎりぎりの暮らしをしていた。

 
彼女たちの父、パトリック・ブロンテ(1777-1861)は、アイルランドの貧しい家に生まれながら、1802年ケンブリッジのSt.John's Collegeに合格した。これを機会に、彼は自分の苗字を、Bruntyから、より洗練された響きのあるBronteに変えた。学校を終えた彼は、教区牧師として各地を転々とし、最終的に、ハワースの地に落ち着いたのは1820年のことであった。当時、アンは生まれたばかり、他には、シャーロットの上に、二人の姉がいた。そして、シャーロットの下には、ブランウェルという男の子がいたので、この時点で、子供は6人いたことになる。

 
この頃から、彼らには、暗雲がたちこめ始める。先ず、1821年、ハワースに移り住んでから僅か一年後、三姉妹の母が亡くなる。次に、1825年、上二人の女の子も亡くなる。彼女たちが通わせられていた学校では、劣悪な環境の下に、厳格過ぎる教育が行われていた。それが一因であったとも言われる。これらの状況は、シャーロットの「ジェーン・エア」の中で描かれている。見た感じ、監獄のようなものであった。西洋の物語に良く出てくる、「いじわるばぁさん」がうじゃうじゃいて、子供たちが、かなり陰湿にいじめられるという、あれだ。

 
一気に二人の子供を失ったパトリックは、同じ学校に通っていたシャーロットとエミリーを、一時、家に引き取ることにした。それ以来、父親であるパトリックが、彼女たちの教育を行った。また、亡くなった母方の叔母、エリザベスが、家事一般を担うと共に、女性としての心得を彼女たちに施したとされる。

 
その後、彼女たちは、教職に就いたり、見識を深めるためにブリュッセルに赴いたりと、精力的な活動をする。他方、ブランウェルは、将来を嘱望されたアーティストであり、肖像画画家としての道を歩もうとしていた。彼は、有能なアーティストだったが、なかなか結果を出せない焦りから、次第に酒に溺れるようになる。彼の生涯の後半は、酒と薬と借金に負われるという、堕落した芸術家にありがちな汚点に塗れていた。

 
どうも、この一家は、芸術一家であったらしい。そして、それは、父パトリックの方針でもあったらしい。シャーロットとブランウェルは、さる芸術家の元に通って、絵を勉強していた。エミリーはピアノの才能に恵まれていた。アンは、歌うことをより好んだ。才能というのは、天から授かるものであるが、少なくともその半分は、環境が物を言うような気もする。

 
僕はちっこい頃、

 
「チェロをやりたい」

 
と、なかなか高尚なことを言ったそうだが、そんなもんを習わせるところは、そうそう近所にある訳もなく、おかんは決断を怠った。ここに、不世出の天才チェリストが現れる可能性が、さっくり消えてしまった。おかんは今でもそのときのことを悔やんで、「探してでもやらせれば良かった」と言っている。全くその通りである。習っていたら、今頃は、えげれすではなく、音楽の都ウィーンの空の下で、旨いソーセージと旨いビールを楽しみながら、「ウィーン通信」を書いていたことだろう。

 
・・・同じかい。

 
さて、ここで、彼女たちの人となりを、説明する。尤も、「ブロンテ姉妹」の映画で見たのと、今回訪ねた「ブロンテ博物館」の資料からの抜粋である。

 
シャーロット。彼女は内気な一方、事実上の長女なので、所謂長女タイプでもあったらしい。割と辛抱強く、職を務めたりしている。優等生タイプであり、秘技は「戻り鶴」である。

 
ブランウェル。彼は、上に書いたように、周りからはその才能を認められていた。然し、浪費癖が、彼の人生を狂わせてしまった。借金を背負って家に戻ること数回、彼は、ハワースのパブ、「Black Bull」に入り浸り、次第に体を壊していった。

 
エミリー。リリアン棒を自在に操りながら、編み物など家事一般を、最もよくこなしていた。シャーロットと共に、家を離れたときには、ホームシックにかかり、すぐに現場を逃げ出すなんていうこともあった。叔母のエリザベスが1842年に亡くなってからは、彼女が、家事と父の世話を担当したという。

 
アン。ううむ。浅香唯は可愛かった。然し、アンに関しては、あまりデータがないらしい。映画を見ても、いまいち印象に残っていない。作品を見てないし、読んでもいないというのも、一因かもしれぬ。

 
そして、重要なのは、ブロンテ一家が、凄まじく貧しかったということと、ハワースという土地の地理的条件が、凄まじく厳しかったということであるで。牧師としての信頼は厚かったパトリックだが、生活は本当に苦しかったらしい。また、寒寒としたムーア(荒野)に囲まれた、一小村のハワースの寂しさと厳しさは、筆舌に尽くし難い。「嵐が丘」の映画で存分に描写されているけれど、ムーアというのは、本当に寂しいものなのだ。キャシーとヒースクリフが、馬に乗って駆け回る荒野、短い夏には、ヒースという紫の野草が一斉に花を咲かせる荒野、広大にして厳粛なる大自然がすぐ目の前にあるこの環境は、彼女たちの作風に大きな影響を与えたとされる。作品全体を覆う、なんとも言えない暗澹たる色彩を生んでいるのは、必ずしも、生活の貧しさだけではない。

 
彼女たちが、初めて作品を上梓したのは1846年のことであった。「Poems」と名づけられたこの詩集は、Currer Bell、Ellis Bell、Acton Bell、のペンネームで自費出版された。偽名を使わざるを得なかったのは、冒頭に書いたような社会状況、つまり、女性が文筆活動などを行うものではないという規範がまだ強かった時代環境を反映したものである。言うまでもなく、これらの名前は、男性の名前である。

 
詩集が売れたのは、僅か二部であった。

 
以後、「ジェーン・エア」(1847)、「嵐が丘」(1847)、「アグネスグレイ」(1847)と立て続けに出版をした三姉妹は、精力的に執筆活動を行う。徐々に評判も良くなり、次第にこの作者は一体誰なのかという、世間の噂が立ち上るようになった。ある出版社が故意に流した噂により、Currer、Ellis、Actonの三人は、実は同一人物であるという風評も広まった。それを正すために、シャーロットとアンがロンドンを訪れたりもしている。

 
漸く日の目を見た彼女たちだったが、幸せは長く続かなかった。酒と薬で体がぼろぼろのブランウェルが、1848年に没する。彼の葬儀に出席したエミリーは、そこで風邪を引いてしまう。体調が悪いことをひた隠しに隠していた彼女が遂に倒れたとき、既に手遅れなほど、病状は進んでいた。結局、彼女が、医者に診てもらったのは、死の直前の一度のみであったという。1848年12月19日、エミリー死す。享年30。病名は肺結核であった。

 
程なく、今度はアンが同じ病気に罹る。医者から静養が必要と言われたアンは、シャーロットに付き添って貰って、海辺の町、Scarboroughに赴く。ここの海風は、当時、肺病に良いとされていた。然し、シャーロットの介護も空しく、アン死す。1849年5月28日。享年29。

 
姉妹の中で、唯一結婚したシャーロット。然し、彼女もまた、同じ運命を辿ることになった。当時、既に、彼女は小説家として名を成していたのだが、その期間はまことに短いものであった。結婚したのが1854年6月29日。アイルランドへ新婚旅行へ出かけて、戻ってきてすぐ、彼女は亡くなることになる。1855年3月31日。享年38。お腹には子供がいたという。

 
なんとも残酷な、過酷な、人生である。

 
と、ここまで、前置きが長くなってしまいましたが、行って来ました、ハワースへ。

 
街は本当に小さく、ほぼ当時のまま、メインストリートが残っていて、とてもいい感じである。僕は早速、ムーア歩きに出かけることにした。せっかくなので、荒れ野を、歩き倒さなければならない。最終目的地、Top Withensと呼ばれる廃墟までは、往復10km、四時間の行程である。さくっと、というわけにはいかぬ。然し、これを見なければ、極めたことにはならない。えげれすに来て、フィッシュ&チップス、ベークドポテト、ベークドビーンズという「基本メシ」を喰って唸らずに、「極めた」と言うようなものである。

 
えげれす人は、全く以って、Walking好きである。Walknigツアーってのがかなりあちこちで主催されていて、参加者も多い。えげれす人っていうのは、なんというか、ゆったりしている。せかせかしない。その点は、日本人と正反対なのかもしれない。例えば、休日、車で景色のいいところに繰り出したとする。日本なら、多分そこには、なんちゃら記念館となんちゃら博物館となんちゃら美術館と、温泉とホテルとテニスコートとバーベキュー場と、寺と神社と庭園と遊園地とゲーセンとボーリング場と、ロープウェイと展望台とお土産屋かなんかがあって、

 
「記念だし、入ろっか」
「珍しそうだから見ようよ」
「綺麗な美術館ねぇ」
「日帰り入浴はできるかしら」
「お食事はホテルで取りましょうよ」
「ねぇ一寸テニスしていかない?」
「あ、お肉買いに行かなきゃ」
「古そうなお寺だな」
「神社もあるわね」
「綺麗なお庭」
「あのジェットコースターのりたーい」
「オレはゲーセンがいいな」
「そして、一発、投げとくか」
「お、登ってみようぜ」
「まぁ、綺麗な見晴らし」
温泉饅頭は基本でしょ」

 
と言って、せわしなく、網羅的に行動する。日本人は、とっても密度の濃い休日のを過ごし方をよしとする。そして、帰りの大渋滞に巻き込まれ、へとへとになって帰宅する、というところまでがセットである。

 
然し、えげれすは違う。えげれすには、なんちゃら記念館もなんちゃら博物館もなんちゃら美術館も、温泉もホテルもテニスコートもバーベキュー場も、寺も神社も庭園も遊園地もゲーセンもボーリング場も、ロープウェイも展望台もお土産屋も、まず無い。

 
あるのは、

 
「歩道」

 
そして、することは、

 
「Walking」

 
この一択、潔い一択である。彼らは、車を然るべきところに停め、おもむろに、カッパを着始める。晴れていようが、いなかろうが、カッパを着る。靴を履き替え、帽子を被り、リュックを背負う。そして・・・歩く。歩く。ひたすら歩く。

 
確かに自然は綺麗だし、全く人工物のないところを歩くのは、命の洗濯って言葉がぴったりする感じではある。しかしながら、彼らのウォーキング好きは、堂に入っている。男も女も、おっさんもおばちゃんも、ばぁさんもじいさんも、兎に角歩く。老いも若きもこぞって歩く。歩いている彼らは、とっても嬉しそうである。

 
然し、これはまだ、彼らにしてみれば、「動きがある方」である。もう一つ、彼らがいい景色のところですることと言えば、

 
「日光浴」

 
彼らは、車を然るべきところに停め、おもむろに、折りたたみ椅子を取り出す。そして・・・寝る。寝る。ひたすら寝る。

 
確かに日光浴は気持ちいいし、景色のいいところで眠るのはとっても気持ちがいい。しかーし、せわしないにっぽんじんの目から見ると、あの光景は、なんとも言えないものに映る。

 
もっと、動けーーー!
何で、ここまで来て、寝んねん!

 
「折角なのに、勿体ない」と思う僕は、矢張りにっぽんじんなのである。

 
話が、あさっての方向に大きくずれてしまった。・・・というわけなので、僕は意を決して、10kmコースに挑むことにした。ガイドには、往復4時間とある。然も、注意書きがあって、

 
・ムーアを嘗めたらダメよ甘く見るなよ
・夏でもエゲつない気候
・晴れたと思ったらすぐ豪雨
・食糧はたっぷり持っていきなさい
・水を忘れたらイロイロ終わるよ
・いっぱい着込め軽装はマジでやめとけ
・サンダル履きとか、舐めた格好は、本気でやられるぞ

 
などと、びびらせまくり文章が並んでいる。ブリテン島ってのは、高い山も、切れ込んだ渓谷もなく、あるのは丘と、低い山のみである。尤も、ハワースのあるヨークシャーは、daleと言われる独特の谷が沢山あって、イングランドの中ではぼちぼち険しい地形のところだけれども、いっても、たかが知れている。僕は、一応は水だけ買って出かけた。

 
暫く車道を歩いた後、例の「歩道」が現れる。「歩道」は「Public Footpath」と呼ばれ、国中に張り巡らせられている。ここは人気コースなので、あまり荒れているところはなく、表示もきちんとしているので、コースアウトの心配はなさそうだ。人気のないコースなどでは、もろもろが朽ち果てていたりするので、ガイドがないと厳しいところもあるらしい。

 
周りは、丘、丘、また、丘。そして、丘と言えば、そこにいるものはただ一つ。

 
羊。

 
僕は今回、初めて奴らを、至近距離で見た。歩道は、奴らの囲いの内部にあったりするのだ。それで、しみじみ思った。矢張り、物事は、接近してみないと、「本当のこと」が分からないのだと。

 
遠くから見る奴らは、常に、僕らの心を和ませてくれていた。緑の草原に、ポツポツと白い斑点を作る奴らは、えげれすの原風景の一つである。もはや、風景の構成要素として必須である。遠くから見るあの景色はとても綺麗だし、見ていると、まるで草原を駆け巡るハイジのように、自分も駆けてみたくなる。

 
しかーし。現実はそんなに甘いもんではなかった。奴らはいつも、喰っている。どこででも、どんなときでも、絶え間なく、喰っている。ということは、どこででも、どんなときでも、絶え間なく、出している、ということでもある。この当たり前とも言える事実は、接近してみなければ、全くわからなかった。喰えば、出る。自然の摂理であるが、「風景」の時には、想像だにできなかった。・・・だって、「風景」が「うんこ」をするか?

 
緑の草原に白い斑点を作るくらいならまだしも、ややもすれば、雪景色の中の雑草状態になっていることもあって、要するに、夥しい数がいるということ。となると、「出すモノ」の数というか、量というか、密度というか、それも当然の如く、夥しいものになる。そこまでは、遠目では見えないのだ。だから、「風景」の段階では、ハイジのように、駆け回りたいとか、寝転びたいとか、暢気なことが言えるけど、実際にやったら、とんでもないハイジが出来上がることになる。それとも彼女は、「それが自然」とばかり、そのままの姿で、笑顔でブランコをこぐのだろうか。

 
そんなこんなで、「次の一歩」を着地させる「スキマ」を秒単位で確保する、という、我が人生では使ったことのない脳の動きを伴う「うんこ回避行動」を取りつつ、僕は前進した。街中で犬のうんこを踏んだときのショックは計り知れないものがあるが、それは、この広い世界にあるたった一個のうんこを、自分の歩幅との兼ね合いで偶然にも丁度踏みしめてしまった物凄い偶然に、ある意味「運気」みたいなものを感じるからである。しかし今回の場合は、それとはちと訳が違うのだ。そこで僕は、「もはやそれは「土」である」「土であるから、踏んでも構わない」「何か問題ですか?」という、発想の画期的転換を行った。だいたい、色は同じではないか。人間、追い込まれると、常人ではなし得ない行動を思いつけるものである。

 
自らの叡智に酔っていたのも束の間、まもなく、僕は、その画期的発想の瑕疵に気づいた。色がおんなじだからと言って、うんことカレーは違うように、うんこはやっぱりうんこなのであった。いざ、踏んでみると、そこには、微妙な質感の違いがあった。「広い世界のただ一つのうんこ」を、意図せず、踏んでしまった経験は、何度かある。しかし、意図的に「踏みに行った」のは、我が人生、初めてである。「それとわかっていて、それを踏む」と、それぞれのブツは、形状もさることながら、保存状態の違いもあって、まさに千差万別である。驚異的な太さのものから、可愛らしいものまで、そして、既に土に化しているものから鮮度の良いものまで、多様性の塊である。…あ、いや、「塊」はやめておこう。比喩なんだけど、ある意味、比喩にならないな。だから、やっぱり、気をつけながら歩かなければならぬ。コペルニクス的転回を遂げたと思われた回避行動は、瞬時に無に帰した。

 
…今回は、ヒースクリフとキャシーの悲恋話と、それを生んだブロンテ三姉妹の哀しい生涯を、寂寥のムーアに絡めて展開するつもりだったのに。何で、オレは、うんこを熱く語っているんだ?いかんいかん。

 
羊は相変わらず、必ずどこかにいるんだけど、周りは、丘ばかりで、他に目印が無い。奴らは目印にはならない。なだらかな丘陵がうねりながら延々と続き、背の高いものが全く無い。目印になる岩とか低木などがあっても、すぐに丘陵の「うねり」の下に隠れてしまうのだ。辺りは一面にヒースの群生。どこを見回しても、360度、同じ景色である。羊。草原。丘陵。低木。ヒース。「荒野」という言葉がまさにぴったりくる景色である。僕は、「嵐が丘」の中で、ヒースクリフとキャシーが馬で駆け回っていた、あのムーアの情景を重ねて見ていた。殺伐とした荒れ野。あの景色を、自分がまさに、歩いている。感慨深いねえ。

 
歩道はちゃんとしているから良いようなものの、それでも数回、道を外れかけた。それに気づいたのは、ガイドブックのおかげである。あれを持たずに来ていたら、迷ってしまったかもしれない。そして、道を外れてしまったら、目印となるものが殆どなく、360度景色が同じで、気候の変化がめまぐるしいここでは、遭難することもあり得るかもしれないと思った。「嵐が丘」の中でも、キャシーが豪雨に打たれて、死にかけたではないか。そうなると、あの、びびらせまくり注意書きも、満更嘘ではないのかもしれない。全くもって、「ムーアを嘗めたらいかん」のである。

 
姉妹が好きだったという「ブロンテの滝」、同じくお気に入りだったという「ブロンテの橋」、等のポイントを過ぎ、愈々佳境に入る。時間としては、夕方17時。傾きかけた太陽が、荒野を照らす。ひたすら続く丘陵とヒースの群れ。人工物は何もない。そして、遥か遠くに、何かが建っているのが見えた。最終目的地、「Top Withens」である。

 
この廃墟は、1900年頃までは使われていたという、農業施設だそうで、今ではすっかり朽ち果てている。石造りの、この地方に多く見られる様式だが、屋根は朽ち果て、壁も崩れかけている。傍には、大きな2本の楓の木がある。「楓」って、木偏に風って書くんだね。まさに、強風が吹き荒れ、空に浮かんだ雲は、瞬く間に通り過ぎる。エミリーは、ここの家を見て、「嵐が丘」の着想を得たと言われているのだが、僕の中で、また一つ、記憶が交錯した。映画のシーンそのままなのだ。

 
全く無人の、人の気配が全く無い、荒野の中に、独りいると、しみじみと自然の厳しさを感じることができる。この自然は彼女たちに、「小説のいのち」を吹き込んだが、同時に、彼女たちの「生命」も奪ったのだと思うと、厳粛な気持ちになってくる。

 
僕は、来て良かったと、心から思った。

 
翌日は、ブロンテ博物館に行った。彼女たちの生家はまた別にあるのだが、生涯の一番多くの時間をここで費やしたのだという。入ってすぐ右側の部屋は、パトリックの書斎である。彼は、食事もここで取り、閉じこもりがちだったという。エミリーがよく弾いてあげたというピアノもここにあった。

 
その向かいには、ダイニングがある。ここは、ハイライトの一つらしい。中心のテーブルに座って彼女たちは食事を取り、その後、夜遅くまで、小説の構想について議論をしたという。アンが好んで座ったというロッキングチェアや、エミリーがその上で亡くなったというソファーがある。彼女は、世界的に評価の高い小説を一本書いたのみで、その短い生涯を閉じたのだ。ここで。

 
その他、パトリックが毎晩九時になると、娘たちに、「あまり遅くまで起きていないように」と言ったという、曰くつきの時計だとか、エミリーがその上で毎日パンを焼いたという台とか、シャーロットの、日本趣味のジュエリーボックスだとか、様々なものが保存されている。僕は、ふと思った。一般に、ブロンテ一家は貧しくて、生活に困っていたとみなされている。ただし、それには注釈が要るのではないか。

 
先ず、第一に、パトリックが子供たちに、芸術の素養を身に付けさせようと、色々な努力をしていたという事実がある。また、彼らの家には常に、servantがいたと言う事実もある。困難さと費用とが、現代のそれとは比べ物にならないほど大きい当時、彼女たちは数回にわたり、旅行をしている。「貧しくて生活にも困る」という事実に、偽りはないのかもしれない。他方で、この伝統ある階級社会のえげれすにおいては、いくら貧しかろうが、貧しさで階級が下がることはない。彼らは、依然として、ある一定の階級に属していたんだろうと思われる。そして、「その階級に属していること」は、「その階級の人ならば当然身につけなければならない素養」を身につけなければならないということを意味する。生活必需品ではないが、いわば「階級必需品」のようなものを、身に纏い続けなければならない、ということなのだろう。それを理解すると、ヒースクリフが、小説の中で、受けた仕打ちや取った行動の真意が汲み取れる。

 
全てを周り終えて、もう一度考えてみた。僕には矢張り、エミリーのソファーが印象的だった。一作しか書いていないのは、彼女だけなのだ。三姉妹のうち、最初に亡くなったのもエミリーであった。ずっと父親の面倒を見ていたとか、体の不調を人には決して言わなかったとか、医者に診て貰うことも拒んだとか、そういった史実に基づいて、映画「ブロンテ姉妹」の中でエミリーは、勝気な、それでいて優しい女性に描かれているんだろう。30年という短い生涯の中で、燦然と輝く作品を一作だけ遺して、逝った女性。

 
うーむ。

 
帰ったら、もう一度、「嵐が丘」を読もうと、しみじみ思いながら、ハワースを後にした。