えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】えげれす通信_vol18:花見に箸 (31/03/1999)

街中、イースター一色なんだけど、我々には、「イースター」が何なのか、実のところよくわかっていないのであった。卵グッズとかひよこグッズが、色んな店で売られていたりするのだが、アレの一体何がどうなのか、いまいちわからない。
 

そういや、こちらに独特の各種行事類は、その都度気にする様にして、なるべく目の当たりにしようと頑張っていたつもりなんだけど、結局、ハロウィンも、この前の「Red Nose Day」も、そして恐らく今回のイースターも、やっぱり本質的にはわからないままに終わる気がする。
 

大体この国は、一応「えげれす国教会」があるとはいえ、さほどキリスト教が盛んだとは思えない。やはりそこは新教だということなのか。


例えば、えげれす人がこぞって外国へ行ってしまい、えげれす人が町中から消えてしまうクリスマス時期の倫敦には、
 

「今日、珍しく、英語をしゃべってる人がいた」
 

などというジョークがあるくらいである。クリスマスを教会で、みたいな感じは、あまり見えてこない。
 

倫敦には、英語以外の言語を話す人間が多い。生粋のイングランド人は本当に少ない。ように見える。少なく感じるほどに、非えげれす人が多い。ように見える。だから、必然的に、倫敦で見かける宗教も、多種多様になる。唯でさえ、国教会がそんなに影響力をもっているのかどうか結構微妙なところに、イスラム教から仏教まで混じっているので、まさに「坩堝」である。
 

だから、キリスト教の行事も、それなりにやってはいるんだろうけれども、なんというか、こう、爆発的、熱狂的にはならない。よって、我々にはわかりにくい。
 

アイルランドとか、フランスとか、カソリックの国に行けば、また事情は違う様に思うけど。あるいは、えげれすでも、倫敦以外のカントリーサイドに行けば、また事情は違うのだけれども。
 

さて。倫敦を一歩出ると、正しいイングランドの景色が広がる。これは全く、えげれすの素敵なところである。土曜日は、Bathという街に行って来た。
 

ここは、えげれすにやたらとある、「何かのルーツ」町の一つ、風呂(bath)の語源となった町である。発音はバースと伸ばすんだが。

 
大体倫敦から170km。一時間半くらいで到着。この日は、めちゃめちゃ快晴で、めちゃめちゃ暖かく、兎に角気持ちの良い日であった。

 
ここの観光の目玉は、ローマ人が紀元1世紀だかに築いた浴場である。未だにうっすら湯が沸いてるのは驚きだったけど、当然、入浴するためのものではない。水は、相当汚いのだ。でも、そんな昔からのものがさくっと残ってる辺りは、流石にえげれすだと言うべきか。

 
コースの友人が、前に、

 
「そうだ!温泉に浸かろう」

 
と思って、バースにやってきて、呆然としたらしい。まあ、しかし、、めちゃめちゃ観光地なので、浴場を見下ろす回廊なんかもあって、なかなか楽しい。

 
この街は、何だかこじんまりとよくまとまっており、天気も良かったので、とっても好印象だった。芝生が気持ち良さげに見えたので、ビールを買って、日光浴しながら飲んだのは、まさにえげれすの正しい過ごし方である。

 
近くに桜も咲いていて、ううむと唸ってしまった。桜の花、快晴、ビール。ううむ。。。

 
然し、桜の傍のカフェの外席に座って、食事をしているえげれす人は、相も変わらず、

 
サンドイッチ
チップス
エール

 
なのであった。僕らは、

 
「桜の下では、タコさんソーセージが欲しい」
「重箱は必須」
「お稲荷にシーチキンは邪道」
「うさぎの林檎は、意外に美味しくない」

 
等々、交々語ったのであった。

 
矢張り、田舎はいいね。というか、倫敦脱出すると、すぐにいい。人も良いし、景色も良いし。・・・毎回、こればっかり言ってるな。

 
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さて、日曜には、またまた居酒屋に行った。今回は、「関西弁&英語交換レッスン」のキースに、「正しいニッポン居酒屋のルール」を教えるためである。彼は、既に日本に行ったことも、大阪に行ったことも、居酒屋に行ったこともあるんだけど、ここは一つ、きちんとレクチャーしようと云うことになった。

 
彼は、何故か、箸遣いは上手い。彼だけではなく、下手なソノヘンの日本人のワカモノよりも、箸遣いが上手いえげれす人は結構いたりする。しかし彼は、箸にまつわるタブーまでは、ほとんど知らなかった。

 
我々は、

 

 

「さし箸」
「惑い箸」
「相箸」
「一本箸」
「移り箸」
「せせり箸」
「洗い箸」

 

 
等のタブーと、持ち方、戻し方、等の基本を教えたのだが、教えている我々も、改めて驚いた。

 
何と、「**箸」という単語が多いことか!津軽には七つの雪が降るというが、箸に関しては七つどころじゃない。矢張り「箸」というものは、日本文化の中枢を占めているのである。「こうするべき」「こうしちゃいけない」等々、規範の及ぶ範囲が広いというのは、それだけの文化的コードが細分化されているってことで、文化における「箸」の機能が分化しているという訳である。素晴らしき哉、箸文化。

 
キースは、というと、
納豆という難関を易々と超え、冷奴、コロッケ、焼き鳥、モツ煮、から揚げ、揚げ茄子、いくらおろし、等々、難無く平らげた。熱燗も、最初こそむせていたものの、最後のほうは、かなり上機嫌で、しきりに「旨い。旨い。」と言っていた。

 
盛況のうちに終わりを迎えた飲み会。我々にとっての関心は、矢張り、「キースにとって一番旨かったのは何か」。
 

「なぁ、どれが一番旨かった?」

 
彼は暫し考えた後、確信に満ちたまなざしでこう呟いた。

 
「肉じゃが」

 
うむ。
矢張り、イモか。
 

我々は、何か大きな納得感を得て大きく頷き、店を出た。

 
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【2023年からの振り返り】
この時のような、ガイコクジンを日本の文化に招待する時ってのは、やはり面白いですな。何に気に入るのか、気に入らないのか。何に驚くのか、感動するのか。ニホンジンが外国で異文化に驚愕すること、反射する日本文化を改めて考えること、そして異郷の人間とそれらを語らうこと(経験すること)、これぞ文化交流の醍醐味ですな。