えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】えげれす通信_vol15:翻訳のはなし (05/03/1999)

だんご三兄弟が、凄く気になる今日この頃ですが、日本は今、どんな感じなのでしょうか?

 

 
えげれすの地は、ぐんぐん日が長くなっていて、この前までは16:00には真っ暗だったのが、今では嘘のような明るさになっております。今日はちと寒かったが、最近は大体暖かく、いい陽気になってきております。

 

 
というわけで、久々の通信です。

 

 
現在、うちのコースは、一年で最も忙しいのではなかろうかという時期にさしかかっていて、みんなは、疲労が溜まりまくっている。

 

 
とりあえず、目先の問題は、来週提出のエッセイ。僕は、昨日、漸く終わらせて、周りにプレッシャーをかけている(笑)。それはさておき、今回の通信のテーマは、そのエッセイクエスチョンにもなっていた“translation”。

 

 
エッセイのテーマは、簡潔かつ、単純で、「翻訳は可能か?議論しなさい」である。最近この点を色々と考えるようになっていて、日常生活の中でもその疑問が波及してきている。これはなかなか面白いテーマである。

 

 
エッセイにおける基本的な僕の構図は、「完璧な訳出は不可能」「その意味を表す特定単語がない場合には、その文化には、その概念はない」である。例えば、「頬杖」。

 

 
今日、授業中に、僕自身が「頬杖をついて」いたのだが、ふと思った。「頬杖をつくこと」は、えげれすでは、失礼にあたるのか?あたらないのか?

 

 
和英辞典を引くと、「頬杖をつく」の英語は、"rest one's chin in one's hands"(あごを両手の上で休ませる)。なんともややこしい頬杖である。

 

 
同時に「第二の法則」より、えげれすの文化には、「頬杖」に関する如何なる文化的コードもないのだろうと推測した。「特定の単語」が存在せず、「事象の説明表現」になっているからである。

 

 
ブレークタイムだったので先生に聞いてみると、果たして、「頬杖をつくこと」は、失礼な行為でも、無礼な行為でもなく、また当然、何らかの肯定的な意味を持つ行為でもない、「単なる行為」であるらしい。

 

 
そんなことを考えていた授業中、今度はしゃっくりが出た。とりあえず、調べてみる。

 

 
「しゃっくり」って、「吃逆」って書くんだね。知らなかったぞ。そしてその英語は“hiccup”。これ、絶対、音からきてるよな。先生に聞くと、矢張りそうらしい。

 

 
じゃ、げっぷは?調べると、"burp“。これも、音だ。そういや、シンプソンズのバートがげっぷする時に「バーーー」って言ってるよな。

 

 
欧米では、屁と、げっぷでは、げっぷの方が行儀悪いって聞いたことがある。それは本当なのか?それを確かめようと思ったとき、ブレークタイムが終わってしまった。

 

 
その後、「屁」を調べたら、”wind”にそういう意味があることを発見した(単語としては"fart“)。

 

 
windには、「風に運ばれてくる臭い」という意味もあるらしい。さらに、「屁をこく」は、“break wind”というらしい。何とも含蓄のある表現だ。この流れで行くと、“do one's business"(排便する)も、相当オサレな表現だな。

 

 
寮仲間の女の子の逸話がある。セミナー中、彼女は相当「ビジネス」が緊迫していたらしく、ブレークタイムが来るやいなや、先生に訴えた。

 

 
”Can I go to toilet? I'm now in emergency!”
“Sure. I can't help your own emergency."

 

 
なんとも玄妙だねえ。

 

 
また別のブレークタイムの機会に、「左利き」の話になった。二元論的に言えば、「左」はネガティブな意味を含むこともあるので、左利きは矯正されることもある。

 

 
うちの先生連中の左利き率は相当高い。それはえげれすではどうなのか?何か特定の意味を持っている?すると、韓国人のクラスメート曰く「韓国でも、左はネガティブよ」。そうなのね。

 

 
うちの先生は、「確かにえげれす人には多いかもしれないけど、それでもせいぜいクラスに5人くらいよ。ここの先生にはやたら多いけど、これは、一般的なえげれす人の傾向ではないわよ」と言った。

 

 
左利きだと筆記体が書けない(書きにくい)けど、普段からブロック体使いの彼らには、あまり問題ではないのかもね。

 

 
「山」という概念。えげれすにおけるこの言葉のニュアンスは、多分、日本のものとは違うのではないかな。この島には、標高1500m以上の山が存在しないし、常緑樹がわんさか生い茂ってるという雰囲気の山も恐らくほとんど無い。この前行ったスコットランドには、ほぼすべてが岩山だったし、表面にはコケみたいなのが生えている。なんだか平べったいし。見た目、ダッシュして頂上にまで駆け上がれそうな奴ばっかり。日本の山とは完璧に「イメージ」が違う。

 

 
えげれすの子どもと日本の子どもに「山って何ですか?」と聞けば、「地面が盛り上がっているところ」くらいの共通性はあるかもしれない。しかし、具体的なイメージはきっと違うだろう。例えば「山の絵を書いてね」と言って書かせても、出てくるものはきっと違うに違いない。そうなると「第一の法則」、つまり、「山(日本語)」と「mountain(英語)」にはズレがあるということになる。

 

 
これは、前に書いたかもしれないけど、リンボウネタにこんなのがある。彼が住んでいたマナーハウスは郊外の平原にある。そこの老女主人との会話。

 

 
>「あなた、floodって知ってる?」
>「勿論ですとも」
>「綺麗よねぇ。。。シミジミ」
>「???」

 

 
えげれすの「川」には、日本の川のように急流や渓谷などを伴うものはほとんどなく、地面をベターっと流れている。そしてそれが、春先にあふれるらしい。あふれて、静かに、じわじわと、周りの平原に水が進入していくらしい。そしてそれは、「災害」というよりは「風物詩」に近いノリなんだそうだ。確かに、えげれすの川を見ると、さもありなんと思うところもある。

 

 
というわけで、訳出というのは、たとえ出来たとしても、そこに含まれる文化的脈絡や含意というものまですべて含めて、精確にtranslateできるものではない。これが今回のエッセイのテーマであった。

 

 
ではでは。

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【2023年からの振り返り】

このテーマは面白いね。引き続き、色々なタイミングで、考えることがあります。例えば「四季」だって、温帯の人間じゃないと、その意味は理解できないわけでしょう。フィジー人に「春」と言ってもピンとこなかったからねえ。「花が咲く季節だよ」と言っても、かの国では、ハイビスカスが一年中咲いている(笑)。