えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】えげれす通信_vol14:外国考 (09/02/1999)

「外国」とは一体何だろうか?


 
文字通りに考えるならば、「自国」以外のところ、具体的には、別な国、となる。アメリカから見たメキシコも外国だし、フィジーから見たヴァヌアツもまた外国である。ここには、何の疑問もない。


 
ただし、「外国」という言葉を使用する一般的な状況では、「自分の国」を基準にした「そとの国」というニュアンスでその言葉を使うことが多い。我々日本人にとっては、「自分の国」というのは、言うまでもなく「日本」を指す。「外国」と聞くと、「日本以外の国」を指す。日本に戻った時に、「外国から帰った」という実感を感じる。


 
些か硬い話はおいておくことにして、この週末に、ドーバー海峡を横断して来た。以前にここに書いた「果て研究会」の、第一回新歓合宿である。面子は、男2+女2、の4人編成。僕が旅程を決めた。


 
出発駅はLondon Victoriaである。昨今は、ガトウィックエクスプレスが運行開始したおかげで多少盛り返してきたものの、嘗ての栄光は薄れてしまった感がある駅である。この駅は昔、ドーバーを経由して大陸へと向かう客のために、数多くの有名列車が発車していた超メジャーターミナルだった。駅舎は、倫敦の数あるターミナル駅の中でも、威容を誇っている。しかし最近では、発着本数が減り、短距離列車のみが発着するローカルな駅に成り下がってしまった。


 
我々は、10:35発、Dover Priory stn.直行の急行に乗ることにした。この列車ダイヤは、事前に僕が、トーマスクック時刻表で調べておいたものである。しかし、出発時で既に、この先の我々の旅を暗示するような出来事に出会ってしまった。


 
最近のBR(British Rail)では、多額の投資を行い、「時間通りの運行」を可能にしたらしい。そのおかげで、列車は遅れたり、トラブル無しで、正確に走ることができているらしい。


 
「時間通りの運行」を実現するために、多額の投資を行ったらしい(大事なことなので、因果関係を逆にして、もう一度)。


 
いや。ツッコミを入れさせてくれよ。なぜ「時間通りの運行」を実現するために、金がかかるのか。


 
ともあれ、昨今のえげれすでは、「時間通りの運行」という「夢のような状況」が生まれているらしい。それは本当にそうらしいのだが、タダでそのような「夢のような状況」が生まれる筈はない。「夢」は、土日を犠牲にして初めて生まれたシロモノである。


 
「エンジニアリングワーク(保守作業)」が、ほぼ毎週の土日に、全英各地で行われる。それに伴い、運行ダイヤはドラスティックに変わる。


 
なんとなく、この噂は聞いていた。えげれすの「エンジニアリングワーク」のドラスティックさはエゲつないとも聞いていた。列車編成や運行経路の「変更」はアタリマエ。いや、「変更」とは言えないほどの、もはや「創造」なのではないかと思うほどの、奔放な改変が頻発する。運休もあるし、行先が変わることもある。最初動いていたのに、途中で動くのをやめる場合もある。なんでもアリ過ぎて、想像は追いつかない。「ここはえげれすである」「万事ちゃんとしている日本のJRではない」と、いくら肝に銘じたとしても、人間、所詮、経験による束縛からは逃れられない。ゆえに、じたばたしても始まらないという諦観が重要である。なすがまま、どこへでも行くさ。どこに着いたって気にしないさ。特定の場所に行こうとするから、ニンゲン、慌てるのだ。どこだってよいさ。そこにはそこの良さがあるさ。


 
今回のドーバー行き列車は、途中区間のエンジニアリングワークによって、行先が変わっていた。諦観のまま行動する人は、ドーバーではない、別の終着駅に辿り着くことになる。諦観を持たず、ニホンジンの甘い感覚のままえげれすに来てしまった人も、見知らぬ終着駅について呆然と立ち尽くすことになる。我々としては、それでも良いけれども、やはり当初の目的地を目指すことにする。


 
ドーバーに行きたい人は代行バスに乗ってね♪という指示


 
こんなドラスティックな変更を、サラっと済ませるもんなあ。


 
我々は「注意深さ」を遺憾なく発揮し、ドーバーに無事に着くことができた。さて、これからの予定は決まっていない。というよりも、ドーバーに何があるのかを知っている人間がいない。「果て」だから、来たのだ。それ以外に理由はない。気の向くまま、風に吹かれながら、とりあえずメシだ。


 
ふらりと入ったが、これがなかなかTraditionalなカフェで良かった。プルマンランチ(農夫が食べる決まった形式の定食)や、Traditional Afternoon Teaなどを頼み、だらだらと過ごすうちに15:30になった。


 
有名なドーバー城にでも行ってみようということになり、道を登り始めると、かもめが鳴き、海が広がっている。ハーバーライトの時間ではないけれど、一羽じゃなくてうじゃうじゃ飛んでいるけれど、そこはマチコである。「ハ」を「ド」に代えたくなる。


 
「果て研」っぽい光景に満足したものの、城は16:00で閉まるという。我々は、結局何もせずに、カレー行きの波止場まで歩いて行った。えげれすの端っこに到達した我々は、ここから、ドーバー海峡を船で渡り、今夜は対岸のカレーに泊まる。おフランスである。


 
当初乗る予定にしていた船はホバークラフトであった。この、珍しい船に、我々はちょっと期待していた。しかしホバークラフトは、天候不順のため欠航。悉く我々の行く手を阻む事態の多さに、何らかの「策略」が働いているのではないか、と勘繰る。仕方なく、遅い時間の高速船に乗ることになった。ドーバー辺りは、「White Cliff」と呼ばれ、白亜の断崖が続く景勝地である。景色を楽しみにしていたんだけど、時間が遅いため、何も見えない。


 
海は荒海。後ろは佐渡ではなく、ドーバーなんだけれども、船は揺れるし、胃袋も揺れる。女性陣は次第に弱っていったが、元気な男性陣はビールを楽しむ。


 
船内は、そこはかとなく、おフランスふうである。船内放送も英仏二言語でやるし、表記もしかり。異国情緒が高まる中で、ついにカレーに着いた。昔の入管跡を通って無事に入国。おお!おフランスだ!


 
ただし、そこはまだ、渺茫とした船着き場である。人気もないし、おフランスがビンビンに感じられる場所でもない。そして我々は、町に行くために、タクシー代をケチり、歩くことにした。


 
・・・しかしこれが、恐ろしい距離であった。しかも、歩いている道は、高速道路的なものである。何度かの「横断」と、中でも、インターチェンジ級のラウンドバウトの「横断」は、笑えないほどオソロシイものであった。


 
漸く、町に到着。我々が予約した「ホテル・ボンサイ」を目指す。この名前はいったい何ぞや。まさか・・・いや、違うよな。んな訳ないよな。道々、語り合ってきた論点だったが、それはまさかの「盆栽」だったことが判明した。あちらこちらに木のロゴがある。ヘンテコリン漢字Tシャツを「クールだぜ」って思う、あの感覚なんだよな、きっと。まあ、我々日本人が、意味も分からずに着ている英語Tシャツだって、えげれす人から見れば、意味わからん、ということも多いわけだし。


 
奇妙なホテルに荷物を置いたあと、今回のメインイベントである「海の幸喰い」へ出かけた。


 
改めて街を歩いてみると、当たり前だけど、矢張りえげれすとは違う。


 
通りを行く人はこちらをじろじろ見る(えげれすではあり得ない)。
街にネオンが多く夜でも明るい(えげれすの街にヒカリモノはない)。
外食店の数と種類が多い(えげれすだと、フィッシュ&チップスとパブでおしまい)。
夜でも活気がある(えげれすの夜は、21:00を過ぎれば、パブ以外に人がいなくなる)。


 
一軒のシーフードレストランに入る。敷き詰められた氷の上にシーフードが載っている、旨そうなプレートが見えたのだ。


 
ギャルソンがやってきて、「予約はしたか?」と聞く。「げ。。してないよ」と言って出ようとすると、「OK。大丈夫よ」と笑顔で言って、我々を招き入れる。


 
うお。愛想がよい。


 
メニューを見ると、当然フランス語で書かれている。分かるのもあるけど、分からんのが多い。ああだこうだ言っていると、件のギャルソンが来る。


 
「決まった?」
「まだ。よくわからないよ」
「よし、オレが英訳してあげよう」

 

 

ノリが良いぞ。ラテンはやはり違うな。


 
我々は、基本の、シーフードプレート盛りあわせを頼むことにした。4人いるけど、様子見を兼ねて、とりあえず二人分を頼む。


 
!!!


 
皿が運ばれてくる前に、厨房の様子がチラリと見えていた。そこでは、アホみたいにでかいプレートに、牡蠣やらエビやらカニやら貝やらがコンモリ盛られていた。我々は「あんなでかいプレート頼んだの誰だ?」とガヤガヤしていたのだが、それは我々のテーブルに運ばれてきた。一人2000円くらいだけど、2人分4000円を4人でシェアするから、実質一人1000円である。最終的には、シーフードプレート以外に、エスカルゴ、ムール、舌ヒラメ、そしてワインボトルを3本頼んで、一人3500円くらいだった。(イモと揚げ魚で1000円取られるのと比べると・・・)


 
プレートには、エスカルゴ用のひっかけ棒、カニエビ系のスプーン、貝引き出し用の針、等々が、非常に小奇麗にディスプレイされている。シャコなんか、爪の方向が、わざわざカッコ良く整えられている。(コーンとライスとチップスが、ラムステーキの上に盛られ、その上にムニュムニュのブロッコリーが乗っかっている一皿と比べると・・・)


 
おフランス。。。いちいちカッコイイ。


 
非常に満足した我々は、更に飲みたかったので、士気高揚しつつ別の店を探した。そもそも、パブが23時に閉店し、代替飲み屋もほぼ存在せず、深夜に飲みたければ買い置きをするしかないものの、酒を売る店もなかなかレアであるえげれすでは、「店を代えて飲みなおす」という思考が働かない。我々は、その感覚を思い出すまでに、少し時間がかかった。


 
「酒屋は開いてないよな」
「ワイン、買えないか」
「でも、もう少し飲みたいよなぁ」
「でも、店が開いてないんじゃしょうがないよね」
「盆栽で聞いてみて、売ってもらう?」
「でも、フロントに人がいなかったよね」
「やっぱり、あきらめるしかないか」
「・・・あのさ、ひょっとして、店で飲んでもいいんじゃない?」
「ん?」
「23時に閉まるわけでもなさそうだし」
「おお」
「そうか。外で飲みなおすっての、あるのか」


 
店を探すために、街を彷徨う。クルマは右側通行だし、運転は荒いし、歩道のところで止まってくれたりもしないので、酔っぱらってフラフラ歩くと轢かれそうになる。そうして入った飲み直しの店も大満足のうちに終了し、素晴らしきカレーの夜は更けた。


 
翌日のドーバーに戻る船。我々は二日酔いと船酔いにダブルで苦しみながら、えげれすに戻ってきた。


 
行き(ドーバー→カレー)にはなかった「入国カード」が配られる。行きにはなかった、パスポートコントロールがある。ヒースローほどではないにせよ、えげれすの入管では、「チラ見スルー」ではなく、質問がある。水戸黄門の印籠的強さを誇る日本のパスポートがあろうとも、えげれすの入管では、スルーにはならないのである。

 

 

なんだかおフランスに溶けていた僕の頭は、二日酔いと船酔いとで、さらに朦朧としていたようだ。


 
入管「学生?」
僕「そう」
入管「何勉強してるの?」
僕「人類学」
入管「難しい?」
僕「Ahh・・・a little bit more...」


 
「嗚呼、ちょっとだけ・・・もっと」は、今や、伝説である。


 
さて、フラフラになっていた我々の目が捉えたものは、正しいえげれすの風景なのであった。ドーバーチャンネルを挟んだだけであり、基本的なところは共通していてもいいはずのドーバーとカレー。しかし、ドーバーの町にあったのは、


 
Fried Cod, Haddock, Sole & Chips(フィッシュバーの看板)
Real Ale & Cucumber Sandwich(パブの看板)
交差点では止まってくれる車たち
そして・・・フィッシュバーは唸るほどあるものの、全く皆無の「Seafood Restaurant」


 
我々は、何とも言い表せない気分になった。


 
「えげれすだね」
「うん。えげれすだ、ね」
「帰ってきたね」
「着いたって感じ」


 
我々にとって、おフランスは、もはや「外国」らしい。日本が「祖国」には違いないけれど、えげれすも、価値を測る上での一つの基準点となるような、我々のアイデンティティーを構成するような、大きな存在になり始めているのかもしれない。


 
帰りの列車は、うんざりするほど、遅延した。しかも、あっさりと目的地を変更し、行くときに出発したVictoria駅ではなく、その隣のCharing Cross駅に到着した。


 
「なんであっけなく行先が変わるんだよ」
「おお。“sortie”ではなく“way out”って書いてある」
「男子トイレは“gents”だ」
「“litter”ね。そうだよね」


 
~~~(地下鉄のホームアナウンス)~~~


 
「Mind the Gap, please!!」


 
一同「(顔を見あわせ)うむ」


 
たまりませぬ。
 
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【2023年からの振り返り】
 
「外国」感。僕にとってえげれすは、やはり、外国であって、外国ではないもの、そんな感じがします。2023年に来訪した時、すべてがだいぶ様変わりしていて驚いたものの、芯の部分は「相変わらず」だったことと、日にちを過ごす間に、昔住んでいた時の感覚が蘇ってきたのとで、やはり僕にとっては「馴染みのある場所」という思いが出てきました。思えばこのカレー行が、初めてその「馴染み感」を感じたタイミングだったかもしれません。「異質」を体験すると、今までアタリマエだった「質」の意味を考えるようになる。これは翻って、えげれすという外国に居住して初めて、アタリマエだった日本のいろいろな点が見えてくる、という感覚にもつながることかもしれません。


 
エンジニアリングワークは、昔も今も、健在ですなあ。まあ、えげれすに限らず、日本以外の外国は(ドイツとスイスと北欧は除外してもよいかな)、鉄道運行ダイヤなんて、まったく信用ならないもんだからねえ。


 
ホバークラフトは、この時、帰りがそうだったのかな?覚えていないんだけど、ホバークラフトってレアなんだよね。大分空港にあったらしい。この時は、まだ、ドーバートンネルができていなかったのかな。思えばずいぶん昔の話だ。


 
ちなみにパブの営業時間は、その後、色々と変遷しているはず。このころは23時閉店が決まりでした。

 

 

それから、言うまでもなく現在では、おフランスとえげれすの行き来には、パスポートコントロールが復活しているはず。