えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】通信番外編(海外旅行記)_vol03:西班牙通信 (23-25/09/1999)

去年の大学のクラスメイトに、和歌山出身で、腰が漬物石のように重たいオトコがいた。彼は自他共に認める「コンサバ」であり、かなりの「冒険家」である僕とはいい対称をなしていた。

 
僕は、今でこそ、わざわざ「フットワークを軽くしようキャンペーン」などをはって、叱咤激励、刻苦勉励、酒池肉林(違)をしなければならないくらい、腰が落ち着いてしまったが、去年は、自他共に認める「フットワーク軽い人」であった。倫敦の中心に住んでいただけあって、かなり頻繁に出歩いていたし、ブリテン島内も、結構周っていた。

 
僕は、ガキの頃から、例えばどこかへ行くとき、行きと帰りの道を変えてくれとオヤジにせがんだり、出先で見たこと無い食い物を見ると、それを買ってくれとオフクロに頼んだりする性格である。つまり、知らんものに対する好奇心が強い。だから、倫敦などという格好の「知らんものだらけ」に住んでいる以上、あちこち見て歩かなければならない。世界各国料理屋が集まっている倫敦にいる以上、何でも食い歩かなければならない。星の数ほどビールの銘柄があるえげれすにいる以上、飲んで飲んで飲まれて飲んで、飲みつぶれて眠るまで飲まなければならない。

 
前述のコンサバ氏とはかなり仲が良かったので、然も彼も酒好きなので、昼食時や空き時間には、大学付属のパブでよくビールを飲んだものである。そして、僕が振るネタは、「あそこ行ったか?」「あれ食ったか?「あれ飲んだか?」。彼の答えは、「いや行ってない」「いや食ってない」「いや飲んでない」である。

 
曰く、

 
「知らないものに手を出して、ガッカリしたり後悔したりするくらいなら、手を出さない方がましである」

 
なんだか英語の構文みたいな言い方で反論するのである。そのコンサバ氏、ある時パブで我々にこう言った。

 
「西班牙、ここめっちゃ良かったで」

 
彼は、彼とは反対に、腰の軽い奥さんに鞭を当てられ、

 
「うっ」

 
と一発うめいた後、一発奮起、一念発起、一触即発(違)、海外旅行を遂行したらしい。そして西班牙は、殊のほかお気に入りだったらしく、我々は珍しく彼の「旅行談義」を聞いた。

 
「いやな、素晴らしい絵が沢山あんねん」
-そうでしょう。

 
「建築も凄い」
-さもありなん。

 
「オンナ、めっちゃ綺麗」
-やっぱりそう来るか。

 
そして曰く、

 
「Bar(バル)に入って、タパスっていう摘みを食いながらワインを飲むんよ。これがまた、旨いねん」

 
そうか。「タパスとねぇちゃん」の国、西班牙か。僕はそのとき、なかなかに感銘を受けたのであった。

 
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8月9月ってのは、本来ならめちゃめちゃ暇な年度またぎの期間であり、好きなことをたっぷりできる時なのだが、1999年の僕は違った。次に進学する大学のofferをなかなかもらえず、というか、駄目なら駄目で次の大学を考えるのに、合否の結果自体がさっぱり来ないので、進路を確定できない。おまけに寮を退室する期日が迫っていて、荷造りもしなければならないのに、新年度からは倫敦に住むのか、別のところに住むのかさえわからないので、荷物を預けるわけにもいかない。そんなこんなで、連絡を今か今かと待っている状態だったので、倫敦を長いこと留守にするわけにはいかない。まあ、そういいつつ、伊太利にいったりしていたけれども。(伊太利通信参照)

 
漸くofferを貰って大学が確定し、すぐに新居を決めて引越しも済ませ、やっと落ち着いたと思ったら、今度は「学生ビザの延長」という作業がある。これには二通りのやり方がある。ひとつは、通称「クロイドン地獄」、もう一つはお手軽な「海外旅行」。この二つの選択肢は、それこそ天国と地獄である。クロイドンというのは、倫敦南部の町であり、そこには、えげれす内務省(ホームオフィス)がある。一つ目の選択肢「クロイドン地獄」というのは、ビザを管轄する内務省に直接出向き、そこでビザの延長をしてもらうという、いわば「直球」の方法である。

 
日本人の感覚で言えば、この「直球」を選ぶのに、何の懸念もない。ビザを貰うのに役所に出向く。そら、そうでしょ。そう思って、念のために早朝から出向くと、現場には長い列が既にできている。並ばねば何も始まらないので、くそ長い行列に加わる。漸く、整理券を貰う。そして順番がくる。しかし、申請書類というのは、どこの国でもヤヤコシイものである。わからないところも多いし、間違えてしまうところもある。そして、そうした不備が少しでもあると、

 
「また来てね♩」

 
状態になる。あるいは、たとえ不備が無くとも、何か疑わしいポイント(出席率とか経済状況とか)が見つかると、

 
「あとで調べるからまたねー♪」

 
状態になる。そして、無事に関門を突破して、ビザの即日交付を受けるべく、再び三度、長蛇の列に並んでいると、ほどなくして、昼休みになる。昼休みと言えば、

 
「(命よりも大事な)お茶の時間なので、仕事は中断するね♬」

 
状態になる。「お茶タイム」は実にゆったりと設けられる。長蛇の列は、遅々として進まない。そうするとそのうちに、役所が閉まる時間になる。すると、


「いやん。仕事終わらなかったけど閉まる時間だし、帰るね♪♪」

 
状態になる。受け取れるのは明日以降だと言われたので、言われた日に取りに行くと、取りに行っただけなのに、

 
「並んでねー♬♬」

 
状態になる。・・・という、「留学生あるある」でもある「クロイドン地獄」を避けるためには、「変化球」ながら、素晴らしく簡単な(若干のリスクはある)「海外旅行」という二つ目の選択肢が有効である。これは、単純に、海外旅行でえげれすを「出国」し、「帰国」した時に、空港の入管で新しいビザを貰うというものである。所属が「大学」であれば、書類に不備が無い限り、現在ではほとんど発給されると聞くが、所属が「アヤシゲな語学学校」などの場合には、最悪、入国を拒否される場合もあるらしい。本人としては、お気軽に「海外旅行をした」だけの話であり、当然、住居もそのままであるのに、突然に「入国できない」状態になる。その場合には、電話かなんかで知り合いに後始末をつけてもらうなどするしかない。出入国は、いかなる場合でも、何が起こるかわからないものである。いくら世界最強である、水戸黄門印籠クラスの「日本国パスポート」を所持しているからといって、最悪の事態になる可能性は、ちょこっとだけある。まぁ、ブレアさんの留学生開放政策のおかげで、えげれすの最近の入管チェックはかなり甘くなっていると言われているから、たぶん大丈夫なんだが。

 
というわけで、恐ろしく長い前置きはこれくらいにして、本題に入りましょう。僕は、ビザ更新のため、どこか外国に行く必要があった。目的は「旅行」ではなく、「ビザ更新」であるため、行先はどこでも良かった。しかし、上述のコンサバ氏の言葉もあり、同行者と相談のうえで、西班牙のマドリッドに決めた。飛行機は、GO-FLYである。

 
期間は1999年9月23日から25日までの二泊である(この文を記述しているのは2000年7月7日)。僕のほうは、大学始まるのが10月に入ってからだったけど、同行者氏は27日からだとかで、結構ぎりぎりの日程になった。

 
フライトは最終便で夜出発である。マドリッドのBarajas空港に着いたのは23:30近かった。宿もとっていないし、食事もしていない。果たして宿は飛び込みでとれるのか?店は開いているのか?えげれすなら・・・カラータイマーのピコピコは消えかける時間帯である。現金をATMで引き出したり、なんだかんだで空港をうろうろしているうちに、最初は開いていた「観光旅館紹介所」が閉まってしまった。

 
ややたじろぎつつ、とりあえず町の中心に向かおうとしても、交通機関が何なのか、まるでわからない状態である。下調べは全くしておらず、僕が持っている古い「歩き方」だけが頼りである。そしてマドリードの項には、「バスで行け。決してぼったくりタクシーには乗るな」とある。ぼったくりタクシーの存在しないえげれすで、のうのうと暮らしていた我々は、さらにたじろいでいたが、空港の表示を見ると、「歩き方」には載っていない地下鉄が通じているらしい。

 
僕らは地下鉄乗り場へ急いだ。時間も時間であり、空港内では、みるみる人が減っていく。空港でスタックしたら、本当に洒落にならない。駅に到着し、妙に新しく、妙にカッコ良く、然し見づらい路線図を検討した結果、やはり市内までは地下鉄で行けることが判明した。きた電車に乗ってわかったけど、実は終電一歩手前だったらしい。あぶないあぶない。

 
まだデジカメが無かった頃なので、写真は無いんだけれども、このスペイン地下鉄、妙に新しく、カッコいい。車内にはちいちゃなテレビがあったりして、実にすっきりしている。スペインって、もっとダサダサなイメージがあったけど、一寸見直した。伊太利の場合は、最初の電車で挫けたので、それに引きずられて後々の印象も芳しくなくなったけれども、西班牙はカッコいーぞ。

 
citycentreまでは16kmだそうで、無事、マドリの中心、Puerta del Solに到着。することは・・・宿探し!

 
「歩き方」には、安宿も多少は紹介されている。我々は、ドミトリーはそもそも眼中に無いので、Hostal(オスタル)やHotel(オテル)のツインを検討するわけだが、載っている宿の値段は結構安い。値段がどれもそれほど違わないので、場所は兎も角、投稿者のコメントのみが判断材料である。

 
『玄関チャイムを鳴らすたびにドタドタと走ってきては、笑顔で私たちを迎えてくれるおばちゃん』
-ピンポンダッシュ

 
『各部屋の扉はステンドグラス、シャンデリアはきらきら、と豪華な装飾』
-ヤロウ二人やし。きらきら、いらんし。

 
『陽気なおじさんが、きっと「アミーゴ!」と言って迎えてくれるよ』
鈴木あみがここきて泊まったら、めっちゃ疲れるな。

 
結局、最初に突撃した宿は満室で、次に行ったところで目出度くゲットした。宿が決まらないとかなり不安なので、良かった良かった。何だか恐ろしく内装が綺麗で、一人あたま3000円くらい。安い安い。

 
棲家が決まったら、次にメシを食わねばならない。晩飯もろくに食っていない。我々は、街を把握する意味も兼ねて、ソルを中心に攻め始めた。時間は深夜1時くらい。倫敦なら、中華しか食えない時間帯である。しかーし、ここは西班牙。あみーごの国である。人がいるいる深夜でも。おいおい、どこから湧いてくるんだ、っていうくらいにうじゃうじゃいる。そして飲んでいる。何だか嬉しくなってきたぞ。

 
結局ソルの目の前にある、でかいバル(Bar)に入って、お目当てのタパスを物色する。タパスというのは、小皿に盛られた各種お摘みのことであり、オリーブ、鰊マリネ、チリオリーブ漬け、等々、少しずつもらって、ちょちょこ食べる、かつ飲む。日本の居酒屋状態である。普段、

 
「何も食わない」
「誰も食わない」

 
という、「サントリー山崎」状態のえげれすパブに慣れてしまっている我々には、相当新鮮である。

 
「いやぁ、オリーブはいっときましょうよ、やっぱり」
イカリングもいいね」
「生ハムを忘れてはいかんです」
「チリも旨そうだね」

 
早速ご機嫌ゾーンに突入した我々は、時間を忘れて飲みつづけた。深夜3時とかなのに、人がいるいる。減らずに、いる。えげれすでは信じられない。っていうか、店が開いてるのが信じ難い。

 
結局、たっぷり飲み、たっぷり食い、大いに満足して閉店時間まで粘った我々。宿に着いたのは4時近くであり、爆睡して、翌日に備えた。

 
元ジンジャースパイス(スパイスガールズ)のジェリーハリウェルがテレビに出ている。彼女は、ばぁさんだかじいさんだかが西班牙系ってのは知っていたが、丁度、西班牙語の新曲「Mi Chico Latino」が出た頃だったので、挨拶にやってきたのかな。西班牙語しゃべってるぞ。何となく、こっちで彼女を見ると、懐かしいな。いわば、

 
「ロイヤルアルバートさだまさし
「サドラーウェルズで坂本龍一
ウェストミンスターセントラルでかんぺいちゃん」
(通信vol.39「笑いの殿堂」参照)

 
みたいななもんか。我々は、朝っぱらのテレビを何となく見ながら支度をし、昼前にチェックアウトをした。この日は、カスティーリャの中心、トレドへ行く予定である。トレドで一泊し、翌日にマドリに戻ってくる。アラゴン王フェルナンドと、カスティーリャ王女イザベルが結婚して西班牙の国内統一を果たしたという、世界史で習ったあのカスティーリャである。中世の城砦都市だというので、行ってみることにした。

 
電車で二時間弱でトレド到着。西班牙の、都市部ではなく、郊外を見ることが出来てなかなか良かった。さて、観光部分は割愛して、再びすべきは宿探しである。この街はかなり特殊な地形にあり、タホ川に三方を囲まれている。街は断崖絶壁の上にあるので、そうそう上り下りはしてられない。上がったら、旧市街で宿を見つけねばならない。でも、まぁ、マドリであの値段だったし、大丈夫だろう。

 
下から見上げるトレドの街は、如何にも城塞都市の面目躍如である。感じとしては、イングランド北部のDurhamにも似ているが、勿論、旧市街部分はもっとでかい。まさに、自然の要塞である。見上げると、ええ感じの建物が見える。・・・道がある。

 
「登ってみましょうか」
「行ってみようか」

 
然し、何やら、道端のごみが次第に増えてくる。

 
「汚いですねぇ」
「道違うんじゃない」

 
工事中の標識が見える。

 
「通り抜けできないんですかね?」
「駄目そうだね」

 
行き止まり。。。うおー、ごみだらけ。なんだ、ここは。ごみ捨て場か?!

 
なんだか、出鼻を挫かれた我々は、正規のルートに戻り、無事、街の中へ復帰した。めちゃめちゃ険しい断崖絶壁を登ってみると、上はなかなか広い。そして、城壁の中の道というやつは、奇怪なくらい複雑である。

 
思うに、唐の長安に倣って都市区画をした日本と、ローマ帝国方式の道路建設法がメジャーな欧州とでは、決定的に違いがある。日本や中国では、「道」は碁盤の目が基本である。道の建設が先であり、その後そこに、色々な施設が建造される。他方、西欧の場合では、色々な施設の建造が先であり、その後そこへ行くための道が敷設される。勿論、「都市間道路」というのはある。しかし、「市内の道」は、例えば、Aさんの家まで来ていた道路を、隣にBさんが家を建てたので、

 
「ほんまらこっちまで繋げましょう」

 
といって、ぐにゃと曲げる。すると今度はCさんが近くに羊小屋を建てたので、

 
「ほんなら今度はそっちまで繋げましょう」

 
といって、またぐにゃと曲げる。こうして出来上がった道なので、倫敦も然り、ローマも然り、東西南北の方向感覚が奪われる道路構造になっている。

 
トレドはその極致である。もう、わけわからん。目的地を決めて、そこに最短距離で辿り着くなんてことは、はなから無理で、辿り着けさえすればよいのだ。歩けど歩けど、くねくね道。歩けど歩けど、迷い道。まさに「渡辺真知子状態」である。

 
行き当たりばったりに入ったオテルが素晴らしく良いのでここに決定、ごみ捨て場の借りを返した我々は、街の散策に出かけた。ところで僕は、絵は嫌いというわけではないものの、「絵を見る」「街をぶらぶら」の二択では、間違いなく後者を選ぶ人。一方、同行者氏は「絵」に関連の深い方面の人である。年上なこともあり、儒教精神に則って、僕は同行者氏に尋ねた。

 
「エルグレコ、どうします?」

 
そう。ここトレドは、エルグレコゆかりの地だそうで、サンタクルス美術館に、絵が22点あるそうな。しかし同行者氏曰く、

 
「僕は、あまり好きな画風じゃないんだよね」

 
はいはい。そうでっか。ほんならやめときましょう。僕もそっちの方が良い。我々の関心は、専ら、「晩飯」に移った。「歩き方」を見ると、

 
「トレド名物、シャコ(Perdis)という野鳥の赤ワイン煮」

 
とある。名物に旨いものなし、さりとて、食わずに語るなかれ。攻めないといかんでしょう。

 
店を探し当てると、まだ開いてない。我々は、「バルる」ことにした。

 
「いやぁ、オリーブはいっときましょうよ、またもや」
イカリングは良かったね」
「生ハムは必須」
「チリが泣いている」

 
いかんせん、居心地が抜群によい。外の席で気持ちがいいし、何より安くて旨い。どんだけ寒くても、どんだけ暑くても、どんだけ町のど真ん中で車の排気ガス充満状態でも、かたくなに外の席に座り飲み食いをするえげれす人を見ると、

 
「なんでやねん」

 
と呟くことにしている。あんたら、こんな空気悪い中で、こんな小さいテーブルで、通行人とこんなに近い席で、よく食えんなー。

 
ちなみにこの呟きは、頻繁に漏れる。

 
真夏に皮コートのおっさん。
真冬に短パンタンクトップのにぃちゃん。
吹雪の夜に肩だしキャミ一枚の、恐ろしく太めのオネエチャン。

 
「なんで・・・やねん」

 
えげれすとは異なり、トレドのバルは、外の席が気持ちいい。我々は、相当に酔っ払い、野鳥はどこかへ飛んでいったらしい。そこで我々は、バルの梯子という奴をしてみることにした。さくっと入ったバルのカウンターに座ると、目の前のガラス棚には、タパスがたっぷりと並んでいる。まるで寿司屋のガラス棚のようである。思わず、

 
「まずは、穴子ね。あ、ガリつけて」

 
とか言いそうになる雰囲気である。ときに、我々は既に三度目の「バラー」であり、中級者である。

 
「いやぁ、オリーブは素晴らしいっすね」
イカリングは堪らない」
「生ハムは芸術的」
「チリは泣けてくる」

 
隣のオヤジが、興味津々、こちらを見ている。こういうのは、えげれすではありえないところである。他者のプライベート空間に対して、好奇のまなざしを不躾に向けるということは、えげれすでは、ほぼ、あり得ない。僕は、住むならば、えげれすの方がいい。しかしながら旅先では、こういう方が面白い展開になることもある。

 
「○△×」
-いや、わからん。

 
「○△×?あーっはっは」
-おい。笑ってるやん。

 
「○△×?!おーっほっほ」
-なんで自己完結してるん。

 
ええ感じのコミュニケーションをとっていると、くだんのおやじが、店主に何やら注文した。・・・お、お定めの「奢ったろ」攻撃か?

 
さらりと出てきたのは、チリのオリーブ漬けである。店主に聞くと、おやじを指差して、カネはいらないよ、と言う(言ったと思う)。

 
ふふ。
オレらは既に中級者バラーやで。
チリは毎回食っとるがな。

 
同行者氏はチリ好きである。彼は自宅飲み会の時は、常にチリを料理する。彼は、すかさず手を出した。

 
隣の親父はニヤリと笑う。
店主も同時にニタリと笑う。
僕もみんなに愛想笑いを振り撒く。
・・・
同行者氏、咽び泣く。

 
だーーーーーーーーー、辛ーーーーーーーーーい。
ひーーーーーーーーー、助けてーーーーーーーー。

 
辛さは尋常ではないらしく、涙目は勿論、顔が間違った赤さになっている。見ているだけで、メロメロ。然し、こういうのは、見ているに限るのである。

 
長いことのたうち回った末、漸く復活した彼は、僕にも薦めてくれたが、僕は丁重にお断り申し上げた。やはり、儒教精神は、にっぽんじんの要である。よきものは年上の方に進呈しなければならぬ。

 
店主が何やらゴソゴソと出してきた。見ると、日本語の、なんかのパンフである。

 
「行ったことあるの?」
「○△×」

 
・・・そうか、あるのか(そうなのか)。

 
再び店主が、何やら出してきた。この人、澄ました表情で、飄々としていて、なかなか良い風情なのだが、適当な間隔をおいて、色々出してくる。今度は、大阪の、四条畷駅発の乗車券である。・・・何故にゆえに片町線??

 
「日本、好きなの?」
「○△×」

 
・・・そうか、好きなのか(そうなのか?)。

 
三たび店主が、何やら出してきた。今度は、日本人の女の子数人の写真である。

 
「日本人の女の子、いてこましたことあるん?」
「○△×」

 
・・・そうか。いてこましたのか(そうなのか?!)。

 
閉店間際、店主のおかんとおぼしき女性と、店主の嫁とおぼしき女性が来る。同行者氏、しきりに悔しがる。

 
「何で、おっさん、あんな綺麗な子とつきあってんだよー」

 
いや。言うなら、「なぜつきあっている」ではなくて、「どうやって知り合った」でしょう。チリでいささかやられたか?

 
最後に、僕は、感謝基本の「千代紙折鶴」を出して見せ、綺麗な嫁はんにプレゼントした。嫁はん、大喜び。とりあえず、財布に数羽、忍ばせておくのですな。伊太利ではアガシにも上げたし(伊太利通信参照)。

 
宿に戻って、感想を述べる。いやあ、実に良いバル体験であった。

 
「いやぁ、オリーブは外せないですね」
イカリングは裏切らない」
「生ハムは踊っていた」
「チリには泣かされる」

 
最終日、マドリに戻った我々は、ピカソゲルニカだけは流石に鑑賞した。その後、とりあえず一度は食わねばならぬ「パエリア」をこなし、最終目的地である「Meson Museo del Jamon(肉の博物館)」へと向かった。ここは、「歩き方」に「肉の博物館という名のレストラン!」と紹介されているもので、既に下調べは済んでいる。店内には、豚のモモ肉の生ハムの塊がずらっと並んで吊るされていて、文字通り、肉の博物館、壮観である。生ハムにはかなり色々なランクがあり、しかも、恐ろしく安い。適当に生ハム数種類を注文して、ワインを飲むという寸法である。我々は、生ハム数種類と、その他、色々なタパスを頼んだ。同行者氏は、流石にチリは止めたらしい。

 
生ハムは素晴らしく美味しく、まさに夢のような瞬間であった。生ハムは、元来大好きであり、ゲップが出るほど堪能できたのは、西班牙に来た甲斐があったというもの。テンションが上がってしまい、モモ肉一塊り、そのまま買って帰りたい気分だったが、流石に検疫で捕まりそうだし、買って帰ったところで、どこに吊るしておくんだ?っていうくらい、鬼のようにでかい代物なので、買うのはあきらめた。

 
というわけで、ビザ取りだけが目的の西班牙旅行は、なかなかの成果を遺して、めでたく幕引きと相成った。よかったよかった。

 
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年末、日本に帰国したとき、僕は、上述コンサバ氏のお宅にお邪魔した。僕が、

 
「いや、きみの肝煎りで、西班牙行ったけど、良かったわー。タパスは、もぉどんだけってくらい食ったけど、旨かったー」

 
というと、彼は「そやろ」と頷き、「西班牙はいいとこなのだ」と断じた。そこで僕は、

 
「でも、行って初めてわかったんやろ?やはりあちこち行かねば」

 
というと、腰の軽い奥さんも同調して、

 
「そやそや。もっと言ったって下さい」

 
と言う。そして、またもや、いつものように、コンサバvs冒険者の激論が戦わされたのであった。

 
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年月は流れ、これを思い出しながら書いてる現在は、2000年の夏である。先日、例のコンサバ氏からメールが来て、そこにはこうあった。

 
「最近、じわじわときみの悪影響が出てきて、行ったことが無い場所に行こうかと思うだけでなく、その土地の名産を食ってみようかという気になってきた」

 
よしゃよしゃ。