えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】えげれす通信_vol09:ラブリーサラ (日付不明/11/1998)

こちらは相変わらず暖かい日々が続いております。G馬場が亡くなったとかで、こっちに来てから結構色んな有名人が亡くなるなぁと驚いているところです。

 

 

今日は、指導教官とのミーティングがあるため、その資料作りに、昨日の夜、丸ごとかかり、結局寝たのは朝の6時であった。さらに今日は、Salahの「アカデミックイングリッシュ」という授業が、朝っぱらの9:00からある。超絶朝っぱらだし、サラはなんか苦手だし、そしてサラは鼻にピアスをしているし、なんとも気が乗らない、憂鬱な朝である。

 

 

鼻ピーサラはいつも、抑揚のない声で、さりげなくきついことを言う。
鼻ピーサラはいつも、えげつない分量の宿題を出してくる。
しかし、鼻ピーなのに、今日はスカートをはいている。
なかなかに可愛いじゃないか。鼻ピーなのに。

 

 

鼻ピーサラがなぜ苦手なのか。その理由を色々考えてみると、やはり、しゃべりに抑揚がないからである。今日はあまりに眠く、したがっていつもよりいっそう内容が頭に入らないので、鼻ピーサラのしゃべりを何となく音楽のように聞いていた。彼女の音域はめっちゃ狭い。ド・レ・ミの三音くらいしかないのではないか。しかも、オクターブが低く、イタリア人とかスペイン人とかのように、何オクターブも乗り越えてしゃべるという抑揚が全くないのである。そして、言うこともきつい。

 

 

鼻ピーサラは、今日もまた、笑わない授業を淡々と進める。そして、きったない字を書きなぐっている。

 

 

前から思っていたし、僕だけじゃなくみんな言っていることだけど、えげれす人は、字が汚い。もう、アリエナイくらいに、汚い。

 

 

普段授業で配られるハンドアウトワープロ作成なので、この問題は露見しない。しかし、授業中に教員がホワイトボードに何かを書く場合、この問題の強烈さをまざまざと感じさせられることになる。だいたいは、一行に2つ以上、判読できない字がある。繋がりから判断するしかない。これはこれで、英語のスキルアップになるかもしれないが、とにかく、笑かすくらい、全く読めない。

 

 

提出し、その後コメント入りで返却されるエッセイになると、この問題は非常に困難なものになる。授業中ならば、その場で聞けば良い。しかし文面に書かれたものになると、本質とは違う労力をかけて解読作業を行うか、改めて問い合わせるという、これまた本質とは異なる仕事が必要になる。また面倒なことに、コメンテーターと返却者は異なるのである。返却者はチューターであり、コメンテーターは講師である。チューターは「講師コメントの解説」が仕事である。チューターは、一人一人の学生のところにやってきて、この解読作業を行ってくれる。しかし、同じえげれす人といえども、筆記体(もとい、殴り書き)解読の難解さは尋常レベルではないらしく、チューターも、「うー」とか「あー」とか言って、悩まし気な顔で苦悶する。あれは、既に、字ではないのよ。アラビア語みたいな、うねっている、全くわからない記号なのよ。

 

 

えげれすでは、文書の記入欄に、「ブロック体で」と但し書きがあることが多い。それはそういうことなのかもしれん。全員があんな字を書けば、おそらく役所は恐慌をきたすだろう。いや、きたさないか。気にしないからね。

 

 

鼻ピーサラがホワイトボードに書く字を見ながら、そんなことをぼんやり考えた。彼女もかなりきつい字を書くのだ。

 

 

日本の若い女性は、一般的に、個性的かもしれないけれども綺麗な字を書くと言える。男性だって、たまに相当汚いのもいるけど、「字の綺麗さ」のアベレージは相当高いと思う。また、他のアジアの人間の書く字を見ても、えげれす人ほどの頻度で、「判読不能」の文字を書く人間には出くわさないようである。

 

 

かたや、えげれす。老いも若きも、オトコもオンナも、こぞって、きったない字を書く。これはいったい、どういうわけなのか。

 

 

愈々、授業に集中を欠いていた僕は、ここではたと閃いたものがある。それは、この前、中華料理屋で見た掛け軸の残像である。

 

 

ハングルではどうなのかは知らないけど、基本的に日中では、「字」が「絵」になる。その表現、というか技法に流派まであるくらいで、「字そのものの美しさ」が評価される文化である。

 

 

しかし、アルファべットの絵というのはあんまりお目にかからない。カリグラフィーくらいだよね。

 

 

これは、なかなかの着眼点なのではなかろうか。鼻ピーサラが前置詞について抑揚なく説明している中で、僕はますます、僕一人の世界に没入していった。

 

 

書道などという「道」があるわけであり、我々は、そういう教育を受けてきている。書道が好きか嫌いかは別にしても、あるいは、自分の字が巧いか下手かは別にしても、日本人は全員、小中学校で書道を経験してきている。ゆえに少なくとも、「字は巧いほうがいい」とか、「下手な字を書くのは恥ずかしい」とか、字の巧拙に対する関心は、皆、もっている。だから、例えば、「きみの字、なかなかかわいいな」などという日常会話があり得るわけだ。これは、ひとえに、「文字の美醜」というものが、一つの価値体系として、文化に根付いてるからではないか。

 

 

他方、えげれすでは、チューターがコメントの文字を判読できないときでも、その字の汚さに対する直接的な言及は出て来ない。自分の書いた文字が相手に判読されない時でも、自分の字が汚い事を恥じるふうではない。文字は、単なる記号であり、通じさえすれば問題ないのだ(通じてないんだけど)。また、欧州では早くから、タイプライターが普及したので、ハンドライティングの重要性が低下した、みたいな都市伝説も聞いたことがあるが、果たしてどうなのか。

 

 

だから、例えば、この「R」はこう書こう、とか、「F」はここを曲げて書いたらかっこいいんじゃないかとか、そういう観点には一切たどり着かないのかもしれない。学校でも、勿論、習字の時間なんてのはないだろうし、「かきかた鉛筆(うずまき鉛筆)」なんてものもないに違いない。日本では「字は綺麗に書きなさい」と教育されるし、そのための「鉛筆の持ち方」も厳しく指導されるわけだが。

 

 

こいつは、なかなかいける話かもしれない。字の美醜を文化的に捉える試みは画期的かもしれない。中華料理屋の掛け軸から、ここまで話を展開できるなんて、今日のオレは冴えまくっているのかもしれない。。。

 

 

独り悦に入っていると、鼻ピーサラが、左鼻のピアスをちらつかせつつ、抑揚のない声で言った。

 

 

「玲、ここの答えは?」
「。。。」
「・・・誰か、他に?」

 

 

・・・今日もまた、鼻ピーサラステージをクリアすることは叶わなかった。偶然路上で出会った時、会釈を交わしながら、今日のスカート可愛かったね、などと言うまでには、まだ当分時間がかかりそうだ。

 

 

ではでは。

 

 

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【2023年からの振り返り】

 

この論点は、今でもなかなか秀逸だと思っている。カリグラフィーってのは、「文字の装飾」であって、原点は、基本的には、個人レベルの話でしょ?しかし、東洋の「文字」ってのは、もう少し「社会レベル」のものだと思うんだよね。文字の良し悪しってのが、社会レベルで、ひとつの価値を構成していて、それが共有されている。

 
サラはどうしているのかな・・・?えげれすの女性って、若い人は、結構トゲトゲしい、硬い人が多い印象があるけど、おばちゃんになると、みんなとてもラブリーになる。サラも今や、ラブリーに違いない。