えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】えげれす通信_vol05:気にしない。 (日付不明/10/1998)

今回は、小ネタを少々。

 

テレビを買ったんだけど、最近勉強をせずに、よくテレビを見ている。まず、面白いのがコマーシャルで、日本では絶対やらないであろうものと、日本ではやるのにこっちではやらないものと、二つに分かれる。
 
日本でやらないもの。
 
まず、テレビ放送でやる、ゲイ・レズの広告。あるいは、「この番号に電話すれば、お友達が云々」というやつ。電話をしたことはないので、残念ながら体験レポートは書けぬ。その他、例えば、泡がいっぱいでる洋風の風呂用石鹸の宣伝に、女性ではなく、男性がモデルで出る。しかも彼は、まともに浴槽に浸かり、
 
「うーんむ」
 
充分鼻に抜いた何とも言えない声をあげつつ、泡を自分の胸などにこすりつけつつ、まことにうっとりした、恍惚の表情をする。言うまでもなく、彼の胸は、蜘蛛の巣状の胸毛で覆われている。誰か、蜘蛛の巣にそそられて、石鹸の購買意欲が湧くんかな?あれは何か、セックスアピールなのか?ていうか、石鹸の宣伝に、その要素は要るのか?
 
えげれすでやらないもの。
 
例えば、サラ金のCM(多分、サラ金はないのかな)。デパートのCM(ハロッズやセルフリッジのCMは見たことがない)。温泉旅館のCM(「温泉」旅館は存在しない。有馬兵衛の向陽閣へ♪、などはありえない)。電気製品(かろうじてPhilipsや最近ではSANYOなどはやっている)。そこらへんにある商店(スポンサー料が高いのだろうか)。

 
次は「気にしない」話。

 

英語の「mind」は、「気にする」という動詞である。「Do you mind if I smoke here?」と言えば、「もし私がここで煙草を吸えば、貴方は気にしますか?」という意味である。
 
えげれす人は、とにかく「気にしない」。
 
倫敦は雨が多い。朝は雨で、午前は快晴、昼に雨で、夕方曇り、だけど夜はやっぱり雨、などということは、日常茶飯事である。で、例えば、朝、出掛けに、雨が降っていたとする。しかし彼らは、

 

気にしない。

 
近くのコンビニでガムを買って、10ポンド札を出したら、釣りで5ポンド札と小銭が来る。その5ポンド札は、大体はぐちゃぐちゃで皺だらけである。しかし彼らは、そのままポケットにねじ込む。


 
気にしない。


 
風邪を引いたとき、洟をかむわけだけど、彼らはたいていハンカチしか持っていない。彼らは、盛大な音と共に、ハンカチで洟をかむ。勿論ハンカチは、乾かして再利用する。だって、彼らは、ものを大事にする人たちだからね。


 
気にしない。
 
 
パブで、エールを注文するときなんぞも、スタッフはエールをそろそろと、パイントグラスに次いでくれる。そして勿論、エールはグラスの外にダラダラとこぼれた状態である。ダラダラを拭く、なんてことはツユもなく、グラスはダラダラのまま手渡される。絨毯が濡れようが、テーブルがビショビショになろうが、注いだ方も受け取った方も気にしない。結構いい絨毯なのよ、大体は。
 
寮で。朝のいつもの時間、おそうじおばちゃんが、掃除機と雑巾を持って部屋に入ってくる。僕の部屋には、5000円も出して買ったラグが敷いてある。彼女は、土足でさっさと入ってきて、ラグを踏みながら掃除をする。僕の部屋の、ヒーターの上の部分を、ラグを踏みしめながら雑巾で拭く。綺麗になっても大勢には影響ないようなどうでもいいところを、ラグだけはしっかりと踏み固めながら、掃除をする。これは掃除なのか、どうなのか。考えると混乱するのだが、おばちゃんは当然、気にしない。
 
朝。出かけるための身支度の時間と、おそうじおばちゃんの掃除の時間とが重なることがある。僕は、ちょっとトイレに行くために、鍵はかけず、扉もちょっと開けたままで部屋を出る。そして帰ってくると、案の定、僕の部屋の鍵はロックされている。その部屋は元々、鍵が開いていたのかどうか、元の状態を確認し、兎に角元の状態をキープしておく、などというおそうじの原則のことなど、おばちゃんは気にしない。部屋の主である僕が、ちょっと前に、鍵を持たずにトイレに出ていったのを見ているにも関わらず、おばちゃんは、僕が鍵を持って出たのかどうか、もしここで鍵をロックしたら、部屋の主である僕は締め出されてしまうだろう、などということは一切、気にしない。
 
夕食。うちの寮は「食事付き」であり、セルフサービスである。皿を一枚取って列に並び、好きなものを順番にもらっていく方式である。ちょうど、セルフのさぬきうどんのように、最初は「サラダ」コーナー、次は「主菜」のコーナー、次は「副菜」のコーナー、そして「スープ」のコーナー、最後は「デザート」のコーナー、みたいに各ブースがぐるりと並んでいる。とっても豪華で旨そうじゃないか。まるでフルコースじゃないか。
 
ここで重要な点は、
 
皿を一枚取って列に並び
 
ここである。大事なことだから繰り返します。
 
皿を一枚
 
サラダと主菜が載った状態の皿を、副菜コーナーに差し出した瞬間、だいたいは、矢継ぎ早にこう言われる。
 
「rice???」
「corn?」
「chips??」
 
この「副菜攻撃」は、三人から、三方から、同時に浴びせられる。あたかも「ジェットストリームアタック」のように、三位一体の連携で浴びせてくる。ガイアもマッシュもオルテガも、「それ全部、世界の主食じゃないすか」というツッコミなど、これっぽっちも聞いてはくれない。それどころか、「Yes」か「No」かさえ、聞いてはくれない。
 
例えば、主菜が「ラムの甘酢あんかけソース」だったとする。旨そうじゃないか。豪華そうじゃないか。しかもトロトロのソースがたっぷりだぞ。トロトロのソースが既に皿いっぱいに広がって、実に実に、旨そうじゃないか。
 
彼らに「脇に寄せる」「混ざらないように気を配る」という選択肢は存在しないので、ラムの真上に、ラムが見えなくなるまで、ライスが盛られる。同時に、コーンが、同じように盛られる。皿の上に「horizontal(水平的)」な層ができるのであれば、それはなかなかに美しく、食欲もそそられるだろう。しかし、層は、水平的ではなく、「vertical(垂直的)」に形成される。白いライスは、十分にソースとまみれてぐちゃぐちゃになり、なんともいえない色になっている。「銀シャリでおかずを存分に食べたい」という日本人のはかなき願望を叶えるためには、我々はアムロにならなければならない。
 
既に、皿の上には、十分なスペースはない。しかし、えげれす人には、「I'd rather die than eat meals without chips. (チップスの無い食事を食べるくらいなら、死んだほうがましだ)」という、グラマーの例文に出てきそうな「信念」がある。「十分なスペースがない」ことは、「チップスを供与しなくても良い」という正当な理由にはならない。ゆえに、チップスは、もはやなんだかよくわからない新たな層を形成することになる。だから、主菜を味わうためには、地層を「発掘して」、そこに辿り着かねばならない。
 
気にしない。
 
彼らの美意識というのは、どうなっているんだろう?例えば、建築物の外観部分などは、素晴らしいデザインだったりする。彼らは、テーブルコーディネートにかけては、ある種のセンスを生まれながらに持っているんじゃないかと思うほど、それを綺麗に仕上げる。B&Bなんかでは、やるのは素人のおばちゃんなわけだけど、それでもそれなりのやり方で美しく見せている。しかし、建物の中の配線が剥き出しだったり、窓の立て付けが悪かったり、などということは、非常によくある。
 
なぜ、「盛りつけ」に意識が回らないのか?それは美意識の対象にはならないのか?チップスが喰えればそれで良いのか?
 
これは食事とは関係ないけど、製品化するのに細やかな神経を使ったり、利用者目線で工夫を凝らしたりすることに関しては、日本はとにかく素晴らしい。
 
例えば、めっちゃ綺麗なパヒュームボトルが売られていたとする。しかし、それを使うためには、パヒュームの液体を、元の瓶から移しかえなきゃならない。そこでは、スポイトやら漏斗やらが必要になる。しかし、ここはえげれすである。そんな繊細な商品が販売されているはずがない。そういう気の利いたブツは、ロンドンにもある「無印良品MUJI)」にでも行かねば、手に入らない。恐らく、彼らは、だらだらと溢しつつ、香水臭いボトルをそのまま使うんだろうなぁ。
 
うーん、気にしない。
 
今回は小ネタ集でした。

 

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【2023年からの振り返り】

 

寮の生活が思い出されます。食事は、本当に・・・ネタの宝庫でした。白いままのライス、喰えたこと一度もないなあ。焼きそばみたいなものがあるときも、主菜とやきそばとライスが豪快に交じり合うのですな。これ、そういえば、ケニアでメシを喰った時も、「ワンプレート全部乗せ」だった。やはり親分の精神は、子分たちに行き届くのか?