大阪は帝塚山という高級住宅地にある、「白い家」という喫茶店。僕は、わざわざ「その目的」のTAMEDAKEにそこへ行ったことがある。
また、これも大阪は東住吉区にある、駒川公園。「その目的」のために、そこの滑り台に行かねばならぬと思っているが、これはまだ行けていない。
またまた、心斎橋にある、「ウィリアムス」という喫茶店。これは、わかりやすく、また、行きやすいところにあるので、ウィンナーコーヒーを飲み、正しく「その目的」を果たすことが出来た。
大和川高校。僕の、大阪時代のマンションの徒歩圏内にあるこの高校は、「その目的」にとっては重要度がS級なのだが、残念ながら、中に入ったことはない。
これらは全て、仙台出身の僕が大阪の大学に来て以来、これまで、何十回となく聞かれた質問、
「何で、東京じゃなく、大阪の大学に来たの?」
に対する、「表」の答えに関係している。これまで、この質問は何百回と聞かれてきたたのだが、僕はそれに対して、A面B面の、二つの答えを用意していた。表向きの、汎用性の高い、説得的で追加的説明が不要なA面回答は、
「京都に近いから」
である。これは全く真実であり、会話は一往復で終了可能である。場面と状況によっては、僕はこちらを用いる。しかし、裏向きの、汎用性が低い、錯綜的で追加的説明を必要とするB面回答がある。それは、
「大阪は、僕の「人生の師匠」のルーツである街だから」
である。これも全くの真実なのだが、会話は一往復では終わらない。というか…終わらせない。さぁ、朝まで語り明かそうか?
「たにむらしんじ」
である。「白い家」は、彼が嘗て、帝塚山の高校の、軽音楽部の顧問をしていたときによく通った喫茶店。「駒川公園」の「滑り台」は、彼が、星空を見ながら、「昴」の構想を練った場所。「ウィリアムス」は、まだ鳴かず飛ばずだったアリスが、大阪時代、よく行っていたという喫茶店。そこで彼は、ウィンナーコーヒーをよく飲んでいたそうな。そして「大和川高校」は、勿論、彼が卒業した高校である。
僕が大阪にやってきた理由の一つは、我が師匠の考え方や感性を育てた、この特異な文化をもつ関西地区に、身を置いてみたかったからに他ならない。僕の夢の一つに、
「死ぬまでに、タニムラに会って、色々聞いてみたい」
というのがあるが、悲しいかな、未だに実現していない。色々と、聞きたいことは、用意してあるんだけどなあ。
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「何故えげれすに来たか?」これまた、よく聞かれる質問である。更に、「何故、この大学を選んだのか?」これまた、物凄く沢山聞かれる質問である。ただしここでは、僕は、直球勝負、つまり、本当の事由を言うことにしている。
「人類学が、この国で始まったから」
というのが、第1の質問に対する答えであり、
「Firthがこの大学で教鞭を取っていたから」
というのが、第2の質問に対する答えである。まあ、「両面シングル」というヤツかな。
Sir Raymond Firth(1901-)は、えげれすを、いや世界を代表する人類学者の一人である。僕の院における研究は、ほぼ、彼の理論についてであった。先日、彼の著作の収集をほぼ終え、Bibliography作りに、一区切りがついたところである。Firthは、御歳97歳という高齢にも関わらず、不定期に、うちの大学に顔を出しているということ。僕は、セミナーの自己紹介の度に、
「僕は、Firthと握手するために、この大学に来た」
という鉄板挨拶をかましてきたけど、これは、偽りのない気持ちであることも間違いない。長年研究していると、対象に愛着が湧いてくるのも当然の成り行きである。しかもそのセンセイは「歴史上の人物」という訳ではなく、「大学にいる動くホンモノ」だとすると、タニムラ同様、「会うこと」が一つの夢になってしまう。
これまでにも何度か、ニアミスはあった。然し、「その日」は遂に、本日やってきた。今日の18時から、「ファースを囲む会」みたいなものがあるという。事前の告知を見ていなかったので、本日突然に知ったのだ。
18時少し前に、会場である「セリグマンLibrary」(セリグマンというのも、高名な人類学者)に行くと、ほどなく、ひとりのじいさんが入ってきた。
-おお。歩いている…
ナマファースを見て、僕はコーフンしてきた。
最初、彼は、世話人の学生と談笑していたが、18時過ぎ、レクチャーが始まった。
彼を良く知る大学の先生たちは、嘗て、僕が、Firthの話をすると、こう言っていた。
「時々来るセミナーでも、眠ってるような感じだけど、時々かぁっと覚醒し、鋭いことを言う」
今日は違ったのか、はたまた僕が贔屓目だったのかはわからないけど、本日のレクチャーは、到底97歳とは思えない話しぶりである。特に、発音、内容、組み立て、反応、どれをとっても、相当鋭い。晩年のG.馬場と戦わせたら、多分勝つんじゃなかろうかという程の勢いがある。世の中の97歳は、こんな筈じゃない。きんさんぎんさんは、流石に凄いけど、きんさんぎんさんと戦わせても、充分に勝ちそうな感じだ。彼は、最初、随想録を紐解く、といった感じで70年前の大学の状況について、語り始めた。
「私がここに来た当初は、人類学はやるつもりじゃなく、経済学を修めるつもりだった」
-うんうん。本で読んだ通りだ。
「Tikopia(彼がフィールドワークを行った、ソロモン諸島の島)では、私が、生産活動について、妻が主に消費生活について、調べた」
別な先生が言っていた。「Firthは、高齢なのにも関わらず、未だによくセミナーに出席したりして、未だ健在である。ただ、彼の奥さんはめちゃくちゃ若いのだ。・・・うん、確か80歳くらいだ」。これはある種の鉄板ネタらしいけど、僕は最近、奥さんの本も入手したので、非常に嬉しいのである。
「Tikopiaは、全くの孤島で、行くのに、船で、ニ〜三ヶ月かかる。いったん行ってしまうと、数ヶ月は、一切船が来なかった。あるのは海と、空と、水平線だけ」
-さもありなん。僕もその記述を読んでTikopiaに行きたいと思ったものだ。
そこから彼は、かなりの明晰さで、人類学の系譜と現状について彼自身の洞察を披瀝し、その後、質問タイムになった。僕は、タニムラの場合と共に、一種の「夢」であるこの現実に、最初は、相当ドキドキしていたのだが、落ち着きを取り戻して、一番最初に思ったことは、
-今日あるってわかっていたら、本を持ってきて、サイン貰うのにな
という、何とも、ミーハーなことであった。実際は、聞きたい学術的質問は、相当あったんだけど、何分、大勢の人がいたのと、その中で英語を話す自信がなかったこと、また次の機会もすぐにありそうな感じがしたことで、今回はパスした。
とある女子学生が質問した。
「今、この状況で、再びフィールドワークをするとしたらどこをやりますか?」
Firthは、97歳とは信じられない切れ味で、人類学が置かれている現在の状況を述べ始めた。
「技術的な進歩のおかげで、手段が高度化している反面、対象もまた、複雑化している。単純に、70年前とは比較できないだろうね」
こう述べたFirthは、現役の教員の思考速度と何ら変わりなく思えた。きっと、きんさんぎんさんと戦っても、相手が複数だというハンデがあっても、あのツインズを、マットに沈めるんではないかしらん。
件の女子学生が、更に続けた。
「で、どこでしょうか?」
Sir Raymond Firthは、少し、考える面持ちで、それからおもむろに答えた。
「もし…神様が、私に、『まだフィールドワークをやりなさい』と告げたならば…」
更に、少し、考えた後、
「I would do say it is Tikopia.」
かっこいいー。
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これで、夢は一つ片付いた。あ、まだ、握手はしていないけど。
-残るは谷村。