えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】えげれす通信_vol01:年度初めのご挨拶①1998 (20/09/1998)

出発からはや2週間。大学も始まり、住居も本格的に決まり、漸く昨日(1998/9/21)、メールを使える環境になりました。しかし、予想通り、メール環境は英語のみ。メールで日本語が使えるのは、今回のこの方式でのみ。つまり、自分のPCで打ち込んだメールをフロッピーディスクに落としてそれを大学に持っていき、大学のPCでニフティのアドレス経由でそれを添付ファイルの形で送受信をする、という方法のみです。こいつが、面倒くさいんだわ。。。日本語でダイレクト送受信できるのは、あと少しかかるなぁ。もう少しで、この寮の各部屋に電話回線が来る。目下工事中なのです。電話回線が通れば、部屋から自分のPCが繋げられるわけです。
 
部屋のコーディネートも終わり(今回のコンセプトは「カラフル」)、暗かった部屋も明るいパステル調に仕上がり、なかなかご機嫌です。しかし、この国は、物価が高い。とにかく高い。ひたすら、もう、高い。これじゃ、破産する。。。
 
それと、さっきも友達と話していたんだけど、食いもんがきつい。ああ、日本の今ごろは秋刀魚やマツタケなぞが旬を迎え、巷ではまた「秋味」かなんかのCMで美味そうなもんを食ってるシーンが流れているんだろうなぁ。。。などとしみじみ思う。
 
うおお、オレに料理をさせろ!!
(そう、この寮では自炊は禁止)
 
この国では、値段は高いけれども、食材は、ほぼ何でも手にはいるのです。
 
授業はねぇ、まぁイギリス流なんだろうなと思うことしきり。基本的に、レクチャーの予習→レクチャー→復習→レクチャラーに質問という流れで、各時間に必ずグループでディスカッションがある。この辺が、日本とは違うやり方かな。
 
それと、日本人が異様に多いです。ここはどこ?って感じで、さっぱり英語が上達しないな。
 
そしてねぇ、さっきも思ったところなんだけど、強烈な人間も結構多いね。そういう人間は、大体にして、日本に対してある種の思いを抱いている。つまり、「日本よりイギリスのほうが上等」という観念。
 
そういう人間の典型的パターンは、
 
 1.基本的に英語は出来る。しかも、身のこなしまで欧風。
 2.基本的に、ある種の経験に裏打ちされてるであろう自信家。
 3.自信家であるが故に、プライドも高い。
 4.日本やアジアに対してある種の否定的認識。
 
1.については、確かに巧いんだわ。発音も会話の組みたても。しかし、同時に2.の特徴を大概もっている。ややもすれば、「わたしは、わたしは、」という自己主張型。これは、一見欧風に見えるけど、実は違うのね。こっちの本当のエリートは、必ず相手の言うことを聞くし、相手を理解しようとつとめる。しかるにこれらの人間は、自分だけが信用できるし、3.のようになって、最後は「わたしとあなたは違うから」などという結論に至る。大体そういうタイプは、外人、しかもヨーロッパ系としかしゃべらないというポリシーをもってる奴が多く、アジア系としゃべっている日本の友人に対して注意をしたりする。
 
とまぁ、観察の結果、こういう、所謂「欧州かぶれ」型が結構いることがわかった。何故、彼ら又は彼女たちが、それほどまでに欧州に対して畏敬の念を抱くのか。そっちのフィールドワークの方がおもしろいかもしれない。
 
あとは、イギリス人は相変わらずいいかげんだなぁと思うことしきりだけど、これらはまたおいおい書くことにします。
 
ということで。See you!

 

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【2023年からの振り返り】

いやあ、25年も前の話なんですなあ。四半世紀。。。

「1998年」って、そんなに昔の感じしないけどなあ。宇多田ヒカルが世に出て、浜崎あゆみもでてきて、だんご三兄弟が流行ったあたりですよ。19の「飛行機雲わって」があり、小柳ゆきが「こーわーれそーなー」って歌ってたあたりですよ。忘年会でモー娘。の「ニッポンの未来は!」ってみんなが盛り上がっていた頃ですよ。ほら、昔って感じしないでしょ?(笑)

 

ワタクシは、英語、特に会話を学んだ経験はほとんどありませんでした。逆に、読み書きの方は、多少自信があったんですが、会話系はまったくでした(今もそうだけど)。で、ヒースローに着いたときは、「仮の宿」をあてがわれておりまして、その場所である「カムデン」に来たは良いけど、そしてその宿舎を探し当てたまでは良いけど、受付のオネエチャンに、さて、なんと言ったらよいのかがわからず、パソコンのメールの画面(あなたの宿はここが予約されています、的な内容)を見せて、事なきを得たのを、すごく覚えております。

 

そのカムデンの寮に一週間くらいいたのかな。そしてあの後、満を持して、一年間の住処となる、ラッセルSQの「インターナショナルホール」へと移ってきたのが、この話の時になります。

 

初めてSOASの建物に行き、事務手続きをするために、廊下の椅子に座っていたら、明らかに日本人、しかしなんというか、上でいう「1から3」を兼ねそろえているっぽい女の人に、英語で、

 

「Can I sit here?」

 

って聞かれました。アンタ、日本人ちゃうんかい。オレ、日本人。わかる?・・・心の中でそう思ったところから、ワタクシのえげれす生活は始まったのであった(そしてその彼女もまた、クラスメイトになるのであった)。

 

通信環境よ。フロッピーですよ。光じゃなく、ADSLでもなく、ISDNでもなく、モデムですよ。14400ですよ。この後、メディアは、ZIP とMOになり、レンタルビデオは、レンタルレーザーディスクになるんですよ。当然、DVD とか携帯電話とかgoogle などというシロモノは、全く流布していない。

…それでもニンゲンは生きていた。

 

それと、この当時の為替レートは、£1=¥255くらい(2023年現在、£1=¥166くらい)。…もうどれだけ、暮らしがしんどかったか。