えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【新】えげれす通信2023_vol14:シンガポールファイナル編 (27/02/2023)

2023年2月27日(月)。
 
事前に情報を入れることなく、なるべくフラットな気持ちでシンガポールを見てきた。いろいろと感じるところもありつつ、今から出国する。ただいまチャンギ空港。そこで、wikiで改めてシンガポールの項を見てみると、なるほどと思わせられることが多かった。

 
この国の、とかく、人工的な感じ。建物、街並み、交通、どれをとっても、よく言えば、「整っている」「秩序がある」「統制されている」、しかし悪く言えば、「人間味が無い」「無機質」「本音が感じられない」。ミテクレばかり綺麗にしているが、本当なのか?という疑問が浮かんでしまう。人間というものを「程々なもの」に見ているえげれすと比べると、確かに共通点はあるものの、本質的には違うのではないかと思ってしまう。それは、昨日、町外れの原生林みたいなものを見た時に閃いたことであった。
 
「自然」というものは、フランス重農主義が指摘したように、「それ自体としての秩序」をもっている。同時にそれは、人間の生活にとっては、ポジティブなところとネガティブなところの両方を含む、混沌としたものでもある。人間は自らのより良い生活のために、自然の恩恵を享受しつつ、自らの都合に合わせて自然という対象を「制圧」し、「管理下におこう」とする。ただしここまでは、文明社会にとっては、ある程度共通なところである。
 
しかし、シンガポールでは、この種の「管理主義」が極端なように思われる。人間は如何なる対象でも、完璧に「統制」し、「管理」し、「秩序を作り出すことができる」と信じているかの如くである。熱帯の自然は手強いだろうし、そこには、並々ならぬ苦労があったことは想像できる。しかし、そこには、些か、「過信」のようなものが見えてならない。
 
そして彼らの「管理」の対象は、熱帯の手強い自然だけではなく、「国民」にも向かっているのではないか。市民社会の出発点は、人間の合理的思考であり、その秩序の原点は、ホッブズの言う「自然法」やアダムスミスの言う「公平無私なる観察人」である。そしてそれらの思想を産んだえげれすでは、社会の奥深いところで、人間というものに対する、相互の、やわらかな信頼感のようなものがある。人間というヤツは、時として、ダメダメなものだ。時にはヤラカシをするものだ。しかし、最後の最後は、「考えれば、人間なんだから、わかるやろ」という信頼感がある。だから、あれこれ、うるさく言わない。公的空間(社会)に対する直接的迷惑には断固とした処断が下されるが、それ以外については、あーだこーだ、いちいち言わない。言わずとも「秩序」は得られる。内生的に、得られる。いちいち指図されずとも、得られる。少なくとも「得られるもの」とされている。これが、毎度毎度僕が、「えげれすは大人な社会だ」と感嘆するところなのだ。
 
翻って、シンガポールである。有名な、「タバコポイ捨て罰金」以外にも、wikiによると、「痰吐き罰金」「道路横断罰金」「バス地下鉄飲食罰金」、そして、「トイレの水流し忘れ罰金」などというシロモノまであるそうだ(「Have a FINE day」のTシャツがあるらしく、黒いジョークTシャツのコレクターである僕としては、見つけたら絶対買おうと思っていた。しかし、見つからず。ちなみに「fine」 には罰金の意味もある)。また、シンガポールの水道水には、虫歯防止のため、フッ素が添加されているらしい。これは、良く言えば「面倒見が良い」「親切」かもしれないが、実のところは、市民を含めた全てを「管理」しようとしていることなのではないか。「管理しなければ、秩序は生まれない」と考えられているのではないか。そしてこれはつまり、人間というものに対する信頼が無い、ということを意味するのではないか。

 

このあたりまではフツーだけど

 

罰金S$500! 罰金S$1000!! 罰金S$5000!!!

 
こういった、ある種の管理主義は、えげれすを含む欧州では、多分、受け入れられない。というか、こんな体制が、生まれるはずがない。市民革命以来獲得した個人の自由とは、完全に相反する価値観だろう。コロナ禍でのマスクにしても、国や政府から強制されそうになるとあれ程の反発を見せた欧州である。少なくとも、英仏を代表とする欧州の価値観とは整合性がない。
 
シンガポールは、えげれすの子分である。「秩序」を求める方向性をもつのは理解できる。しかしこの方向性は、一体何処からきているのだろうか?何故そこまで「秩序」を追求する?
 
この方向性を実行に移す、という実際的観点からすれば、これはひとえに、シンガポールの政体によると言える。僕も知らなかったことで、Wikiを見て初めて知ったことなのだが、シンガポールは長らく、一党独裁なのだそうだ。例えば、人種間対立に関する言論は統制されているらしい。罰金や鞭打ち刑などの、ある種の強権政治の体制があるからこそ、こうした管理主義は実現するのであろう。逆に言えば、ホンネの部分は、表面上、見えにくいものになるだろう。たとえ、混沌としたホンネの部分が存在していたとしても。
 
しかし、実際的な「方法」という観点ではなく、国家としてのメンタリティのようなもの、この方向性を導く価値観というものは、どのようにして生まれてきたのか。僕はそこが一番気になる。その中で、ひとつ思ったのが、「評価」に対する内容の違いである。
 
西洋における「評価」は、言い換えれば、「プライド」である。これは、「自己に対する自己の評価」である。だから、他者の目は気にせず、自信をもてる自己の形成に気をつかう。個々人がこれを行えば、それらの集合である「社会」にも、自ずと秩序がもたらされるだろう。
 
他方、東洋における「評価」は、言い換えれば、「メンツ」である。これは、「自己に対する他者の評価」である。だから、他者に如何に見られるかを気にして、見られても恥ずかしくない自己の形成に気をつかう。個々人がこれを行えば、やはり、「社会」の秩序がもたらされるだろう。
 
どちらが良い悪い、ということではない。ただ、違う、ということである。
 
公共性の重視、多文化主義と異文化への寛容性、法治主義などは、西洋由来の価値観である。仮に、「それらを兼ね揃えていることが、国家としての品格を意味するのだ」というような前提があるとして、そうした「見た目」を実現することこそが、国家としての絶対命題だとするならば、おそらくシンガポールは、その実現を、「管理」によって行おうとしているのだろう。西洋では、長い歴史と、それなりの背景とがあって、内生的にそれらが育まれてきた。他方、シンガポールには、浅い歴史(近代シンガポールの始まりは東インド会社)と、植民地時代の経験と、その後の多民族国家としての歩みがある。彼らはそれらを、外生的に(つまり徹底した管理主義によって)、意図して作り出そうとしてきたのではないか。そして、表面上は、強烈な秩序がさも実在しているかのように見えるものの、一皮剥けば、東洋の顔も垣間見えるという、なんとも奇妙な状態が生まれているのではないか。僕の浅い経験では、人々の振る舞い、態度、社交、気遣い、などの点で、えげれすのようなオトナ感を感じることはなかった。彼らは流暢に英語を話すものの、行為に滲み出る人間の本質は、良くも悪くも、懐かしい東洋のそれであった。
 
つまり、西洋的な秩序を外生的かつ権力的に「創り出す」ことによって、対外的なメンツを保とうとするというような、東西折衷の、半魚人的状態が生まれているのではないかと思う。そしてその混淆は、植民地主義の、ひとつの置き土産なのかもしれない。
 
現在は、経済的成功によって、華々しい地位を獲得しているシンガポールである。GDPを含む各種指数も世界でトップクラスである。国民はそれなりに満足しているため、「一皮剥けばそこにあるホンネ」のグズグズは、潜在化したままの状態を保てるのかもしれない。しかし、国民統合は、喧伝されるほど完璧なものでもないような気がする。対立、とまではいかないにせよ、薄い壁のようなものがあるとすれば、それは、言論統制によって表面化していないだけかもしれない。
 
また、全人口の4割弱が外国籍の移民労働者であることも、サッカーワールドカップで問題が顕在化したドバイなどの中東各国と同じく、さまざまな問題の存在を予想させる。
 
しかしながら、対外的な「メンツ」という、強烈に東洋的な価値観によって、それらはある意味隠され、実に「シュッとしている」ように見えているだけなのかもしれない。
 
以上は、文献に基づく考察ではなく、短期間の滞在経験における僕の個人的印象である。間違いや誤解はあるかもしれない。しかし、何を見ても、何処に行っても、なんとなく感じる違和感の正体が、ぼんやりわかった気がした。
 
一党独裁による強烈な管理主義は、当然ながら、社会主義と親和性がある。シンガポールは「明るい北朝鮮」とも揶揄されるらしい(Wiki)。シンガポールのマジョリティは中国系住民である。この辺を考えるに、オリンピックの時に、環境破壊でボロボロになった森林を緑に塗ったあの国と、なんとなく似たものを感じる。どちらにも共通しているのは、「臭いものには蓋をする」という「メンツ」である。
 
そんな訳で、シンガポールには、あまり肯定的にはなれなかった。そして、翻って、やはり、えげれす!
 
えげれすはオトナだ。
えげれすは素敵だ。
・・・たとえ水道管が破裂しようとも(まだ言う)。
 
さて、そんなことを思いながら、空港地下のフードコート的なところで最後のメシを食べる。そして6時間強のフライトを経て、戻ってまいりました、ニッポン。

 

空港地下にもやはりフードコート的なところあり

 

最後メシはやはりダックラーメン(もういっこの「ヤムライス」はいまいち)←ヤムライスって何だ?!ヤム芋と米の合わせ技??

 

機内食はまずまず

 
入国審査前の陰性チェックのスタッフさんよー、スマホ画面を遠目で確認するだけで、文字情報とか読まないのね。だったらクイーンマザーもすり抜けられたんじゃないの(呆)
 
税関さんよー、QRコードにしたら、前の有人体制の時より時間かかってるじゃないの(怒)。
 
羽田からの京急、こんな遅い時間なのに超満員って、なんなんだよ(怒)。
 
ブツブツ言いながらも、ニッポンを感じます。
 
そして、明けて、2/28。いつものように職場から夕日を眺め、定食をむさぼる。

 

 

生姜焼き定食、キターーー
米でおかずをガシガシ、キターーー
おまけのカレーも、キターーー


 
これですよ、これ。
ごはんでおかず!
 
日常が戻ってまいりました。
さあ、再びのえげれすは、いつになるのか。
ではでは。