えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【旧】通信番外編(海外旅行記)_vol01:伊太利通信 (13-21/08/1999)

倫敦の北に位置する、スタンステッド空港(STN)。ここから市内への帰り、列車から外を眺めて、

 
「おお。奴らは、正しく居る」

 
と感動するはずだった・・・。

 
何故か僕は、予定よりも一週間も早く、しかも何故か、空路ではなく、陸路で、えげれすに舞い戻ってきた。今朝早く、パリのリヨン駅に着いた僕は、フランをもっていないので徒歩でパリ北駅まで行き、そこから、怒涛の早さで、ユーロスターに乗った。

 
ううむ、伊太利。

 
**************

 
出発当日は、早朝に家を出た。ただし直前まで飲んでいたので、ぎりぎりまで用意ができていなく、結局、予定していたバスに乗り遅れた。ゴタゴタしながらも、さくっと、STNに到着。小腹が減っていたので、仕方ないから、バーガーキングで朝食をとる。朝っぱらからバーキン、という事態に釈然としないながらも、「まぁ、これから、いやになるほど旨いものが喰える」と思い直して納得する。なんといっても、泣く子も黙る美食の国、イタリアに行くのだ。

 
飛行機は、あっけなく、ミラノマルペンサ空港に着陸した。暑い。兎に角暑い。早速、10万リラほど引き出して、列車で中心部へ行く。

 
最初に違和感を感じたのは、列車の検札であった。

 
まだ朝が早かったから、僕は寝ていた。そこに、検札の車掌がやってきた。そしてあろうことか、ヤツは足で、僕の足を蹴り、何か言った。

 
「切符、見せて」

 
と言ったんだろうけど、なんぼなんでも、客を足で蹴るか??

 
次の違和感を感じたのは、ミラノの中心駅に着いた時であった。

 
この列車は、空港専用の路線で、通常の伊太利国鉄(FS)とは違う。めちゃめちゃ綺麗で、クーラーもきいていて、快適である。しかし、ミラノに着いて、驚いた。普通のFSの列車たちは、ほとんどどれもが、外装に落書きを纏っている。

 
よくあるでしょう?橋桁とか、陸橋の塀とかに、太文字&丸文字の書体の落書き。何というか、「はじめ人間ギャートルズ」で

 
「おりゃぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 
とかいう台詞が、そのまま固まって、ゴンに当たる、みたいな、そういうフォント。それの落書きが、いたるところ、列車の壁面に、施されている。なんでも「名物」らしいが、名物というには、少しおどろおどろしく思った。ていうか、「名物」はちとおかしいだろ。あまり印象がいいことはないわな。あと、単純に思ったが、「放置」なのね。「名物」だから別に構わないのか・・・。

 
この日は、いったん、北部のトリノまで行き、そこから、伊太利南部の「つま先の先端」、Raggio D.C.という街に向かうべく、南向き夜行に乗ることにした。この、伊太利の長距離列車だが。基本的に、夜行は、ニ種類ある。「急行」と「Inter City(特急)」であるが、急行のほうが、本数も行き先も、かなり沢山ある。乗り放題パスで夜行に乗ることで宿代を浮かそうと思っている僕としては、選択肢の多さから言っても急行が有り難い・・・とそう思っていたんだけど。

 
今回の最初の夜行は、この急行。乗ってみて、まず、驚いた。クーラーがない。このクソ暑い国で、しかも「鉄道王国」の別名まで持つ伊太利なのに、クーラーがない。

 
駅のホームから発車前の客車を見たとき、何か妙な感じがしたのだが、実際に乗り込んでみてその違和感の正体が分かった。

 
当然の如く、車内は、蒸し風呂状態である。窓という窓から、人間の顔が出ており、それが延々連なっている。みんな、何を見ているというわけではなく、何となく、顔を出している。窓を開けないと、暑くてやってられないのだ。しかも、窓を上下で二分したとして、窓が開くのはその上部のみである。客は窓を開け、立って、上部に頬杖をつく。これで丁度、顔が窓の外に出るようになる。これを外部から見ると、「顔のエンドレス連なり」という異様な景色になる。

 
僕も、仕方ないので、みんなと同じく、発車まで顔を出して、何となくホームを見ていた。

 
然し、まぁ、客の多いこと。僕は、この日は、幸運にも、一つのコンパートメントを占領できたから、ゆっくりできたけど、一室当たり6人だから、考えてみれば贅沢な話である。このコンパートメントは、向かい合わせの座席同士を前に引き出すと、うまく繋がってベッド状態になる。めちゃめちゃゆったりと横になれるのであった。

 
翌日は土曜日。朝、目が覚めると、綺麗な海岸線を走っていた。素晴らしい快晴。僕は、小さい駅で、適当に降りてみることにした。

 
そこは、「Roccella Jonica」という駅であった。目の前のメイン道路をまたぐと、延々ビーチである。どうやら、「ここは○○ビーチ」「あそこは××ビーチ」とかいうのではなく、連続で何十キロもビーチがあって、みんな適当に泳いでいる感じである。

 
僕も泳ごうと思った。が、しかし、海パンをもってきていない。

 
誰もいないような小さい街の小さいビーチなら、「すっぽんぽん遊泳」でも構わない。しかしここは、微妙に人が多い。すっぽんぽんになった瞬間、

 
「お、あいつ、すっぽんぽんになりやがった」

 
と容易に確認されそうなだけの距離に、ちらほら人がいる。また、海に入ったはいいけど、その後に、ねぇちゃんとかが近くに陣取ったら最後、海から出られなくなる。それはまずいので、トランクスで泳ぐことにした。

 
うっひょー。めっちゃ気持ちええやーーん。

 
然し、「一旦濡れたトランクスをどうするか」問題が横たわる。例えば、にっぽんの小学生式に、「バスタオルで着替え」をしようとも思ったけど、見つかると恥ずかしい。にっぽんの小学生は、上からバスタオルを巻き、濡れた海パンを脱ぎ、その上からパンツをはき、あとは一気にバスタオルを上に引き出す、という高等技術をもっている。容易には拭けない部分までついでに拭ける上に、着替えまで済ませられるという奥義を我々は体得している。しかしながら恐らく、伊太利人は、そんなもんを見たことがないだろう。仮にその奥義を使ってしまえば、物珍しさに伊太利人がわらわらと集まってきて、見世物になる可能性がある(ないか)。

 
かといって、いっそのこと原始的にいくとすれば、すっぽんぽんになったその瞬間に、パツキンのねぇちゃんたちが押し寄せてくるかもしれぬ。それはそれで誇らしいのかもしれないが、なんとも、甲乙判別しがたい状況である。

 
色々と妄想したが、結局、濡れたまま、ジーパンをはいた。

 
濡れたトランクスから水が滲んで、ケツの形が浮かび上がらなけりゃいいがなぁ、と思いながら、街を歩く。すると、ミラノでもトリノでも、そしてここでも、ほとんどの店が閉まっていたにもかかわらず、一軒だけ、しょぼい、しかもスポーツ洋品店が開いている。田舎によくある、「帽子屋」とか「時計屋」とか、それで生業がたつんだろうか、と心配になる系の店が、ここ、伊太利の田舎町にもあった。

 
「おっちゃん、海パンある?」
「○×△」
「海パンだよ。ほら、こういうやつ」(泳ぐ真似とパンツを指差す)
「!」

 
おっちゃんは、ほこり被った海パンを持ってきた。手にとって、広げてみて、のけぞった。それは、やたら挑発的ラインのビキニであった。

 
他のはないのと聞いても、ないらしい。この地には誰一人、知人友人もいない。僕は大胆に、グラビア的に攻めることにした。

 
再び海へ。しかし、はきかえるとき、再び困ってしまった。依然として、トイレとか更衣室などはない。仕方ないので、木の茂みの中で、素早くはきかえる。

 
しかーし。困難はまだまだ続く。今までトランクスしか履いたことがない僕は、オンナの人の「無駄毛処理」という意味を、初めて、身をもって、理解することになった。モノそのものは何とかなるとしても、いやはや、はみ出るはみ出る。これでは、趣旨の異なる、売り場も異なる、別のグラビアになってしまう。

 
悪戦苦闘しながらも、何とか絶妙なるフィッティングポジションを確保した。これで、いったん海に入ってしまえば、何かが揺らごうが、陸からはわからない。クラゲみたいなもんやろ。そんなこんなで、伊太利初泳ぎはなかなかに楽しかった。

 
夜にはいった、Reggio D.C.リストランテは、初めての土地でちと勇気がいったけど、フルコース食べて、ワインも飲んで、30000リラ(1800円)と、コスパも味も最高。特に、ボンゴレが、とっても旨かった。

 
この日の夜行は、恐ろしく満員であった。既にそろそろ、夜行移動に嫌気が差してくる。

 
15日日曜と、その翌日は、今回唯一楽しかった日々かもしれない。というのは、それ以外は、それほど楽しいとは思わなかったから。その理由は、ま、ぼちぼち書きますが。

 
初めてのローマ。ガイドには、駅の地下に公衆浴場があるという。もしかしたら「風呂問題」が解決できるかもしれない。そう期待して行ってみると、駅は工事中である。駅員に聞くと、「i(インフォメーション)」に聞けという。「i」に行くと、ここは鉄道の「i」であり、そういうことは、ツーリストの「i」に行け、と言う。ムカついたから、「知っているけど教えないのか、知らないから教えられないのか」と聞いても、あっちへ行け、ばかり。

 
基本的に、この国でムカつくことのほとんどは、人間の応対に関することである。伊太利人は陽気で人懐っこいだと??ウソやろ。しかも、オトコに対する接し方とオンナに対する接し方とは、まるっきり違うらしいとは、後で知った。

 
次に、驚くほど英語がしゃべれない。フランス人の「知っていて、しゃべらない」のではなく、「知らないから、しゃべれない」のね。同じヨーロッパにありながら、ましてや、観光収入で食って行こうとしている国でありながら、ここまで英語が通じないのは問題だよなあ。

 
あとは、案内面全てにおいて、不親切。人もそうだけど、案内板が少ない、地図が少ない、英語表記がない、バスや地下鉄に乗ろうと思ったら、駅で切符が買えない(タバコ屋で買うことになっている!)。そこへいくと、パリ&ロンドンは、流石やね。今朝も、リヨン駅からパリ北駅まで歩くとき、至る所にある地図と、通りの名の英語表示のおかげで全然迷わなかった。

 
話がずれたが、あとで聞いたら、公衆浴場は工事中でやはり使用不可なのだそうだ。

 
ローマは結構うんざり気味で、早々に北上することにした。「IC(Inter City)」に乗って、ジェノバへ向かう。ここでの車中は、ものすごかった。

 
途中から僕のコンパートメントに乗りこんできた、30代くらいの、赤ん坊を背負ったねぇちゃん。同じく30代後半くらいの、ガキんちょを背負ったおばちゃん。中学生くらいの女の子4人。これらが、一気に、僕の車室に入ってきた。

 
最初は伊太利人だと思っていたら、なんと、ボスニア人なんだそうな。最初、「難民かジプシーか?」と思った。というのは、振舞いが、傍若無人なのである。馬鹿でかい声でしゃべり、笑い、食ったもんはちらかし、車室で暴れる。一寸、堪忍できなくなってきた。

 
立とうかな、と思った瞬間、話しかけられてしまった。主に、女の子たちが、めちゃめちゃしゃべってくる。で、適当に答えていると、何たることか、おばちゃんの方が、ガキンチョのおむつを外しにかかっている!まさか・・・ここで・・・するのか?!

 
ガキンチョだから仕方ないにしても、今までの行動から考えると、おむつもそこら辺に捨てかねない。

 
様々な可能性を考えて苦悶していると、おばちゃんは一応、トイレに行ってくれた。しかし、数分後、戻ってきたおばちゃんが抱えるガキンチョには、おむつが装着されていない。すっぽんぽんである。

 
おばちゃんは、新しいおむつをセットするでもなく、そのままにして、しゃべりに夢中になっている。まさか、替えがないのでは?しゃべりも良いけど、着替えもね。早くしてくれよ。またしても、様々な可能性に思いを巡らし、最悪の事態を想定しながら、ガキンチョを見る。するとガキンチョは、無邪気に、そして無造作に、イチモツをしごいている。さらに悪いことに、奴のその銃口は、差し向かいの僕をターゲットオンしているのである。

 
僕は、祈る様に、イチモツを見続けた。ガキンチョは、意志でコントロールができないから、オムツなるものを着装しているわけである。凶悪な意志があろうとなかろうと、無秩序に無分別に、銃口から放たれることがあり得るわけである。しかも確実に着弾するのは、この先、暫くシャワーを浴びることができないワタクシなのである。

 
約30分後、おばちゃんは、漸くおむつをはかせた。・・・いや、持ってたんかい!しかし、困難が去ったわけではなかった。

 
おばちゃんは、オムツをはかせ終わると、何故か、僕の隣の席に移動してきた。すると、そこはかとなく漂ってきた匂い。

 
「?」

 
いや、「匂い」じゃない。「臭い」の方だ。

 
「?!」

 
おばちゃんは、「ワキガ」だったらしい。

 
何だか凄まじい旅は終わり、みんなジェノバで降りた。そのとき、良く観察すると、着ている物、身につけているものが、決して安物でも、汚れモノでもないことに気づいた。大体、ICに乗れていること自体、ジプシーや難民ではあり得ない。・・・きっと、ボスニア人ってのは、みんなああなんでしょう(笑)。

 
ジェノバで入ったトラットリアは、安くて旨いうえに、珍しく、人が親切だった。出る時には、客も含めて、全員で「bye!」と言ってくれた。ジェノバの街を歩いていると、ブラックのにぃちゃんが、

 
「どっからきたん?」
「日本です」
「そっか。ようこそ!」

 
こんな些細なことでも、普段の人の対応の悪さに日常的に腹が立っている状態なので、とっても嬉しいのであった。

 
対応が悪いのは、特に「BAR(バール)」。何かの注文で「待つ」際も、えげれすのように「キュー(順番待ちの列)」をつくらないまでも、「少なくても順番ってものがあるやろ!」と怒鳴りたくなるほどに無秩序である。こちらは、頼み方がわからないし、それでまごまごしていても、何分待っていても、そしてそれをわかっているはずなのに、決して向こう(店員)から声をかけてくることはない。えげれすのパブで、こんな不親切な対応をされることは、まずありえない。

 
ローマ駅のBARで、一度、あまり腹が立ったので、でかい声で「Excuse Me!!」と怒鳴ったりもした。ナポリのBARでは、こちらがずっと待っているのを知っているくせに、何も言わない店員がおり、客がいなくなったときに、改めて注文を言うと、

 
「先にチケット買いな」

 
こんなのしょっちゅう。根性、最悪。ほとほとうんざり。

 
さて、ジェノバからミラノまで急行に乗った。またしても超満員である。仕方ないから、廊下に立って、例によって、窓から顔を出していた。

 
走り出して30分。ただならぬ風情で、背後から人が、走ってきた。何だと思いながら、体をよけてあげると、男は、何やら、「ブーー」と言っている。

 
??

 
男が走り去った方向を見てみると、僕の前方約10cmくらいの地点から、最終地点は扉のところへ、見事な広がりと流れるような軌跡を描いて、

 
だーーーーーーーーーーー

 
っとゲロがある(笑)。きっと、僕をギリギリのところでよけた後、トイレには間に合わないと思い、窓の外にしようと思ったんだが、窓の「開いている部分」と窓の「開かない部分」のせいで照準が定まらず、定まらないままに時間切れとなって、顔を振り向きざまにやってしまったんだな、というのが丸分かりの軌跡である(鬼)。

 
兎に角、臭いがたまらんので、僕は、他の車両に退散した。然し、奴があとコンマ一秒早くやっていたら、僕は「返り血」ならぬ「返りゲロ」を、チョクで浴びていたに違いない。風呂問題を抱える旅人に、どんだけトラップを仕掛けてくるんだ、この国は。

 
ミラノから、レッチェ(Lecce)という、伊太利南部のかかとの先にある駅まで初めてICの夜行に乗った。・・・お。こいつは、冷房つきじゃないか!急行とICでは、矢張り、格が違うのか?この味を知ってしまうと、もう急行には乗れないってことで、この日以来、夜行は全てICにしたのであった。

 
さて、レッチェから、さらに先端の街、レウカまで行き、その先の岬に行こうと思った。「果て好き」の僕としては、「かかとの岬」は極めておかなければならない場所である。・・・然し、バスがない。どうしたものか、うろうろしていると、家の窓からおっちゃんが顔を出してこちらを見ている。

 
「すんません」
「○×△」
「ここ、行きたいんですけど」(地図を指差す)
「○×△」

 
嫁はんらしき人も出てくる。

 
「○×△」
「○×△」

 
なんせ、わからん。ただ、どうやら、バスはないらしい。と、そこへ、アガシみたいなにぃちゃんが、我が愛しの、日産プリメーラで登場した。

 
「○×△!」
「○×△!!」

 
ん?何やら進展があるらしいぞ。なんでも、アガシが、そこまで乗せていってくれるらしい。おお。何て優しいんだ。

 
でも、僕は、フィジーでインド人に絡まれた経験があるので、最後まで、金を要求されるのではないかと警戒を解かなかった。ヒヤヒヤしている僕をよそに、アガシはしきりに話しかけてくる。風貌は怖いんだけど、なんだかとってもいい奴らしい。アガシはしきりに、

 
「bonsai, bonsai」

 
という。

 
「bonsai? bonsai?!ん、盆栽か!!」

 
何故か、この国では、日本と言えば、ニンジャでもゲイシャでもカラテでもなく、盆栽らしい。以前、ドーバーを渡ってカレーに泊まった時もホテルの名前がbonsaiだったし、ラテンの国に誰かが広めたのだろうか?

 
「○×△ bonsai?」

 
恐らく、「あなたは盆栽をやるのか?」と聞いていると思ったので、

 
「Si. Si.」(そうそう)

 
と答えると、アガシは、嬉しそうに、木を指して頷く。

 
結局、ぐるっと岬を一回りして、元の場所に帰ってくれた。最後に、お礼として折り鶴をあげると、アガシは、顔に似合わず子供の様に喜んでくれた。盆栽と折り鶴、風情はちょっと似ているかもしれぬ。僕は、これからも、ウィンブルドンでは、アガシを応援しようと決めた。

 
この、岬の街は、「果て」の筈なんだけど、どうも、しっくりこない。えらく観光地化されていて、人がうじゃうじゃいたこともあるけど、何だか、違うのだ。考えてみると、この国の風景は、田舎だけではなく、どこか、こう、全体的に、何だかしっくり来ない。山が多く、絶壁とかもあったりして、景色としては綺麗である。家も、煉瓦や石じゃなくて、コンクリートっぽいので、全体的に日本と似ている部分も感じられなくもない。他方で、至る所に、ゴミと、コンクリートの瓦礫みたいな、ゴミと言えばゴミかもしれないものが散乱している。何だか、景観全般が、白っぽく、汚れている感じがする。日本との異同はともかく、もはや慣れ親しんでしまったえげれすの景観とは、なんだかとにかく異なるのである。そして、大事なことに、途中で気が付いた。

 
「奴らがいない」

 
そう、これは、伊太利最初の日に、既に気づいていたのかもしれない。いるべきところに、いなければいけないところに、奴らがいないのだ。いつでも、どんなところでも、泰然と草を喰っている羊がいないのだ。これは最大の違和感である。

 
他方、これほどの、多分田舎なんだろうが、こんなところにも、恐ろしく綺麗なねぇちゃんは多いのであった。「鄙には稀な美人」というけれど、全然「稀」じゃない。えげれすの場合は、「都会でも稀な美人」だから、これもまた、おおきな違和感である。

 
岬から戻る鉄道の車掌は、Godfatherに出てくるモーグリーンに似ていた。ラスベガスの本締めであり、散髪屋での髭剃り中、目ん玉を、眼鏡の上から撃ち抜かれて、コルレオーネファミリーに暗殺される彼である。モーグリーンは、止まる度に、その直前に前方に移動し、動き出した直後にまたこちらにやってくる。僕は最初、この電車はワンマン運転であり、モーグリーンは運転手兼車掌なのかと思っていた。しかし、それにしては、巡航運転中にやたらとこちらへに来るので、「きっと手放し運転なんだろう」「流石、マフィアはやることが違うわ」と感心していたんだけど、実は、ちゃんと、運転手が、もう一人いた(当たり前か)。

 
モーグリーンは、伊太利人にしては、なかなか細かい人で、小さな駅で、客が乗り込んでくるたびに、ちゃんと検札をし、おつりがないと、次の駅で、小銭を両替するためだけに降りて、いちいち返してくれる。僕にも、最初の駅で、札だけを返してくれ、次の駅で、今度は、残りのコインを返してくれた。50000リラ札を出してしまったので、釣りがなかったのね。

 
夜行でローマへ行く。この日は、久々に混んだ。ICで混んだのは初めてだ。

 
翌17日火曜日は、若干の二日酔いだった。というのは、毎夜、乗り込む前に市場でオリーブを手に入れて、ワインも一本仕入れて、コンパートメントで飲んでから寝るのが習慣化していたのだが、この前夜は、乗り込む前の夕食でも多少飲んだので、全体量が過ぎたのね。

 
ローマに朝着いても、アタマがどんよりしている。活動できなさそうだし、もとより当てもないので、時間つぶしでナポリ行きの準急に乗る。たらたら走り、ナポリ着。

 
街を歩いてみると、この街には、一番の迫力を感じた。犯罪も最も多いらしく、やばそうな通りもあるし、道端で賭博をやっているおっちゃんも異様に多い。露店の数も半端じゃなく、腰を落ち付けたら大阪ちっくで面白かったのかもしれない。惹かれるものの、何せ、僕には、泊まる金がない。いや、金はあるけど、それは食いもんにかけると決めているので、泊まりはやめておく。今回は、事前の計画通り、入場料をとるところには一つも入らなかった。有名名所もほとんど見ていない。ただやみくもに、街を歩きまわっただけ。でもそれで、何となく、「街の匂い」はわかるからね(「臭い」ではない)。その意味では、ナポリは、面白そうな街だった。しかし、暑過ぎるのと、人が多過ぎるのと、体調が思わしくなかったことで、またローマに戻ることにした。

 
体調と言えば、この日は、些か腹ピー気味であった。そして最大の波が、ナポリの、街の外れで襲ってきていた。

 
外国で、日本人が困るのは、外でのトイレである。なぜこれほど無いのか、と思うほど、公衆トイレ、もしくは、店舗に付属するトイレがない。えげれすの場合、パブという最終兵器があるのだが、伊太利のBARには、それだけでは入りにくい。そこで登場する、非常に有り難い存在が、マクドである。どこの街のマクドに行っても、きちんと冷房が効いていて、たいてい綺麗である。この日も、ナポリの街中でたまたまマクドを見つけ、九死に一生を(そのくらいemergencyだった)得た。もし十死めをくらってたら、オレもゲロ男のように、どこぞで何らかの軌跡を描く羽目になってたかもしれない。

 
尾篭な話で申し訳ないですが、マクドと共に有効なのは、駅に停車中の列車である。特に、大きな駅の場合、始発列車が多く、入線してから出発するまで、停車時間が結構がある。

 
あれは、どこぞの駅の、どこぞの急行列車であった。例によって、emergencyだった僕は、停車列車のトイレによって、社会への生還を果たした。で、全てを終えた後、じっくり見ると、そのトイレは、十年前くらいまで、日本でもあった、「垂流し便所」である。

 
つまり、列車が高速で走っている状況であれば、ブツも、紙も、水も、全ては風圧と振動と慣性の法則によって粉々になり、「跡形もなく」散逸する。そういう列車には、「停車中には使用しないで下さい」と書いてあったものである。僕は、結構な年齢になるまで、線路のバラスト(石)が赤いのは「うんこ」のせいだと思っていた。よくまぁ、あんなに、ムラなく満遍なく赤くなるまで、撒かれ続けたんだなぁと感心していた。

 
しかし、その、「どこぞの駅」の「どこぞの急行」は、アツく「停車中」であった。そこに、アツく垂流したオレのブツ。おそらくは、「跡形がある」状態を止めているに違いない。ただし、現在は停車中であり、その「跡形」を拝むことは物理的に不可能な状況である。・・・僕は「犯人」のように、物証を残さず(否、それは残しつつ)、素早く現場を立ち去った。

 
疲労もピークである。シャワーも浴びていない。洗面所やらを駆使して、何とかアタマと顔だけは毎日洗っていたものの、いい加減に限界である。流石にどこぞに泊まろうかと、ローマ市内をぶらついていたら、日本人のオトコから声をかけられた。

 
彼は、こちらでコックをやっている工藤くん。一緒に飯を食い、結局彼の家に泊めてもらうことになった。偶然にもシャワーを浴びることができ、何より、揺れない地面で寝られたので、非常に有り難かった。

 
翌日18日は、昼過ぎまで寝た。工藤氏は仕事に行ったけど、「寝てていいですよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えまして。溜まっていた洗濯をして、シャワーも浴びて、夕方、彼の仕事場へ鍵を返しに行き、夜行に乗った。今回は、一番空いてたパレルモ行き。

 
と云う訳で、19日木曜が、僕の念願のシシリー入りである。当初は、そこから一週間くらい、今度は宿を取って、シシリーをじっくり周るつもりだった。しかし、これまで感じていた、伊太利に対する「うんざり感」がさらに発展して、「帰ろうかな感」に変わったのは、まさにこのシシリーで、であった。

 
当初、パレルモは多分都会だろうから、途中のどこか、小さな街で降りようと思っていた。グランブルーで有名なタオルミナか、パレルモの手前のチェファルにしようと思った。ガイドを読んでいると、どうもタオルミナは相当観光地化されているらしい。一方、チェファルは、「小さくて、picturesqueな街」だとある。僕はチェファルで降りた。

 
すると・・・ある意味、予感はしていたけど、凄まじい人人人!

 
期待していたような「素朴な街」はそこにはなく、「典型的な観光地」しかない。今回は、兎に角、伊太利の田舎へ行こうと、そればかり考えながら地図とガイドを見ていた。しかし、結局それに見合ったのは、二日目の「Roccella Jonica」くらいのもので、あとはさっぱりだった。えげれすによくある、勿論日本にもある「田舎」って奴は、伊太利には存在しないのかもしれない。

 
ただし「田舎」の定義は難しい。この話は複雑で奥が深いので今回は省くけど、要するに、「僕が描くところの田舎像に当てはまるような町」が、伊太利では見当たらなかった。こちらがよりが正しい表現かな。兎に角、僕は、幻滅したのであった。

 
「帰ろう・・・」

 
何となくそう思った刹那、懐かしい、えげれすの風景が思い出されてくる。

 
パブにも行きたい。
チップスも食いたい。
ぶつかっても、「Sorry」と言ってくれる、ドアも開けてこちらを待っていてくれる、何より英語をしゃべっている、そんな人間のいるえげれすに帰りたい。

 
そう思うと、途端にすぐにでも、帰りたくなってきた。しかし、帰りの飛行機は、さらに一週間後の金曜である。鉄道パスは、まだ一週間も期限が残っている。むぅ、どうしたものか。しかしやはり、早く帰りたい。

 
しかし、実際のところ、まだパレルモにも行っていない。ていうか、シシリーに渡っていない。さらに、今回の旅の唯一の目的地、コルレオーネ村も訪れていない。これだけは、何としても、果たさなければ。

 
とりあえず、パレルモに行くことにする。到着すると、矢張り、そこは都会だった。

 
「i」に行く。ねぇちゃんは、英語ができて、なかなか親切である。

 
「コルレオーネに行きたいんですけど」
「あそこの角にバス会社のofficeがあるから、そこで切符を買って、時間も聞くといいわ」
「そうですか。ありがとう」
「日本から?」
「ええ。でも今は、ロンドンに住んでいるんです」
「いいわねぇ。休暇なの?」
「そうです。コルレオーネには泊まるところはありますか?」
「わからないけど・・・でも、何もないところよ」

 
こんな他愛のない会話でも、英語が通じるっていうことだけで、とっても嬉しくなってくる。やはり早く、倫敦に帰ろう。

 
角に行くと、バス会社があった。窓口のおねぇちゃんも、英語が出来て、親切。

 
「コルレオーネに行きたいんですけど」
「片道?往復?今からだと、13:15発だわね」
「ありがとう」

 
窓口おねぇちゃんは、バスが出るとき、手を振ってくれた。なんだなんだ?帰ると決めてから、良い人率が上がってきたぞ。

 
行き先表示がいまいちわからない上に、同じようなバスがいっぱいあってわからなかったので、とあるバスに先に乗っていたシスターに尋ねた。

 
「コルレオーネ?」
「Si. Si.」(そうそう)

 
バスは、約60km離れたコルレオーネへ向かう。途中から、山がちなこの島の特徴が現れてくる。山と言っても、なだらかな山ではなく、丘陵部分の上に、突如岩が90度近い角度で聳え、独特の地形を形成している。コルレオーネも、そんな岩山に囲まれたとっても凄い場所にある町だった。

 
しかーし、矢張りというか、何と言うか、山奥の、鉄道さえ通っていないこんなところであっても、僕のイメージする「田舎」ではなかった。BARがあり、ピッツェリアがあり、その他、普通の店と、教会がある。構成が、都市部と村で変わらないのは、恐らくえげれすでもそうかもしれないが、伊太利の場合、雰囲気までが、大して変わらない。路地に入れば、多少の、期待してた雰囲気はあったけど、全体的には、Godfatherの画面にあるような雰囲気はなかった。

 
僕は、満足したのかどうか、自分でもよく分からないままに、帰りのバスに乗り込んだ。

 
パレルモでは、街を歩くこともなく、そのまま、オリーブとワインを買って、ICの夜行に乗ってしまった。で、20日金曜日、伊太利入りしてから丁度一週間目に、僕は帰国の手配をすることになった。さて、色々考えると、多分、飛行機の片道を買った方が安い。ただ、伊太利での電話の掛け方が、いまいちわからない。というよりも、控えてあった番号にいくらかけても通じない。それよりも何よりも、かけようと思っても、公衆電話ではコインしか使えない。この国では、インフレのせいで、リラの単位がどんどんでかくなっている。例えば、10万リラでも、7000円弱にしかならない。そんなところで、誰が、200リラや100リラのコインを電話をかけるほど持ってるのよ。

 
それなら、と、テレホンカードを買おうとすると、自販機なんて、全く見当たらない。やっと見つけて買おうとすると、カードが出て来ない。英語の説明を見ると、「empty」である。なんで、天下の、ローマ・テルミニ駅にある自販機が、空のまま放置なんだよ!

 
仕方ないので、別の自販機をやっとのことで見付けると、今度は、札が途中で詰まってしまっている。返却もされないし、カードも出て来ない。

 
・・・ここで、通り掛かりの人に、ギャグで「浣腸」とかされたとしても、容赦なくそいつをブチのめすくらいにキレている状態で、三つ目のカード自販機を試す。漸く10000リラのカードをゲットできた。然し今度は、カードは認識するものの、電話機として機能しない。オレは、何故、電話如きにこれほど困らなあかんのか。

 
ますます伊太利が厭になり、倫敦が懐かしくなる。この状態では、たとえ倫敦チューブの自販機がよく、

 
「釣りはでませんよ」

 
状態になっていることや、£20札を入れて、釣りが全て£1玉で出てくることなどは、すっかり忘れているのであった。

 
飛行機の選択はやめて鉄道にする。鉄道パスで行ける最北のトリノまで行き、トリノからパリ行きの夜行に乗ることにする。トリノ→パリ間の切符が8500円くらい。まぁ、思っていたくらいの値段である。あとは、問題の、ユーロスターだ。結構高いはずである。

 
ローマからトリノまでは、このパスでは追加料金が必要となる、FS(イタリア国鉄)の最新鋭、ETR80という最速列車に乗ってみることにした。

 
この国の列車は、準急であれ、急行であれ、ICであれ、ETRであれ、兎に角物凄い速度で飛ばすのである。日本で言うと、京王の特急、はたまた新快速の高槻付近、といったところかな。種別に関係なく、自分の可能な速度で飛ばすものだから、体感としてはそれぞれに差は感じられなかった。ETRも特段のことはなく、ただ、内装が綺麗なのと、設備がまぁまぁ整ってることくらい。

 
トリノでは、最後の晩餐をしようとリストランテを探したが、なかなか良いところがない。国中がバカンス期間中であり、店がほとんど閉まっている。これはローマ以外のどこでも同じだった。ようやく見付けたリストランテで、アラカルトで、フルコースを頂き、これまでで最大の出費(3800円)をして夜行に乗った。

 
夜行の車輛は、期待してたICクラスのものではなく、急行クラスのものであった。つまり、「万人窓から顔出し状態」。中は蒸し風呂。もう、うんざりだ。

 
それでも、一両だけくっついてた、FSではなく、SNCF(フランス国鉄)の客車があったので、まだ、鉄道先進国フランスの方がマシだろうと思い、そちらにした。しかし、結果は、最悪。いつもなら、椅子を倒した状態で、ほとんどフラットなスペースを作れるコンパートメントだったが、SNCFのハコでは、ほとんど倒れない仕様であった。ということは、間にケツが挟まって、非常に辛い態勢になる。最後の最後まで、オレを苦しめる国だ、全く。

 
そういうわけで、パリに着いても、何の感動もなく、ましてや観光する気にもなれず、ユーロスターのチケットを購入するための旅行代理店をただただ探した。しかし旅行代理店も、倫敦なら勝手がわかるものを、パリでは何もわからない。面倒だけど、色々検討する時間も惜しく、結局、正規運賃で買ってしまった。何と、片道16000円!心配していた通り、ユーロスターが高過ぎる。倫敦なら、いろいろ安くする手はあるんだけど、パリでは全然わからない。ドーバーを船で越えることも考えたけど、ここまで来ると時間が惜しい。一刻も早く、愛しのえげれすに帰りたい。

 
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今朝早く、パリのリヨン駅に着いた僕は、フランをもっていないので徒歩でパリ北駅まで行き、そこから、怒涛の早さで、ユーロスターに乗った。

 
車窓は、トンネルを越えると、フランスの穀倉地帯のそれから、えげれすの見慣れたそれへと、確かに変わった。そしてそこでは、いるべきところに、いなければいけないところに、奴らがいた。いつでも、どんなところでも、泰然と草を喰っている羊がいた。そしてこれは最大の郷愁感である。

 
「おお。奴らは、正しく居る」

 
僕は、非常に納得して、えげれすのパブを目指した。


 
ううむ、伊太利。
嗚呼、英吉利。

 

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