えげれす通信、再び

20年ぶりに復活しました

【新】にっぽん徒然:南大東島通信_vol.04 (17/03/2026)

南大東島は孤島であり、独自の生態系を持っているらしい。様々な生き物、様々な鳥たちが生息しているらしい。
 
確かに、窓の外からは、鳥の囀りが聞こえてくる。しかし、窓の外からの「鳥の囀り」、というよりはむしろ、廊下に響き渡る「大江氏の呻き」で、四日目の朝も目覚める。
 
ヲヲヲエ
 
悲痛な唸りが響き渡る。昨日よりも重篤化していないか?何処でそんなに呑んだんだ?盛り上がれる店を教えてくれよ。
 
さしあたり、昨夜の残り物を食べる。流石に多かったね。さわらの刺身はとんでもなく美味かったし、海ぶどうも良かったよ。しかし、イカと魚フライは食いきれなかった。豚玉も1/3くらい残った。それらと、カップラーメンの「沖縄そば」に、初日の豆腐のために購入した「沖縄そばスープ」を入れたヤツを朝食にする。
 
この「沖縄そば」のカップラーメン、マルちゃんバージョンと明星バージョンとがあって、前者の方が安いことに気がついた。それで、それぞれの商品についても、値段に注意するようになった。
 
幾つかある商店で比べると、毎日飲んでいる「菊の露」でも、店によって、最大200円くらいの価格差がある。こんなに狭いエリアなのに、そこを合わせようとはしないんだ。なんで?無頓着なの?売る方も、買う方も?
 
馴染みの「ケンチャンストア」で、三本目のさんぴん茶2リットルを買う。いつもは色々取り混ぜて買っていたから、これがいくらなのか知らずにいたが、単品で買ってわかった。なんと¥460!まあ、仕方ないか。
 
昨日食えなかった「大東そば+大東寿司」を食べる。店内はかなり混んでいる。団体らしき集団もいるぞ。
 

沖縄の離島、大東諸島に伝わる「大東寿司」は、島の特産品で郷土料理でもあります。八丈島からの移民が持ち込んだ寿司がルーツになっていて、大東ではポピュラーな食べ物です。日本で一般的に食べられている寿司とは違い、ネタをしょう油ベースの特製タレにつけて味をしみこませた後、甘酢めしとともにしっかりと握った味わい深いお寿司です。ネタは、サワラやマグロ、カジキ等が使われます。ヅケにしているため魚臭さも少なく、表面は小金色に輝いています。もっちりとした食感に、わさびが効いて、濃厚な味なのでお酒のあてにもピッタリ。(【沖縄】特製ダレと甘めのシャリの相性抜群!「大東寿司」が食べられるお店5選 - おすすめ旅行を探すならトラベルブック(TravelBook))

 
大東寿司は、八丈島移民が持ち込んだ「島寿司」がルーツだとか。漬けタレが、かなり甘いね。蕎麦も寿司も、格別のものではないけど、まぁ、旨いと言えば旨い。しかし、やはり、漁協の方が良いな。あそこの「スープ」二種は、「わざわざモン」だよな。ちなみに漁協は、本日火曜日は定休日。
 

大東蕎麦と大東寿司のセット

 
与儀商店とAコープを覗く。特別の惣菜は無し。ここにも団体が来る。…もうやめてくれよ。オレの行くところに来んな。
 
初めて役場に入ってみるも、あまりに誰もいないし、職員と思しき人が一人だけ机にいる。村の資料とかがあるかなと思ったが、ウロウロすると余計に不審者っぽく見えそうで、早めに撤退する。
 
役所の隣の「Happy Green Market」には、サニーレタスなどの生鮮野菜が並んでいた。水耕栽培のものかな。

 

【南大東】離島でも豊かな食卓を―。南大東村は本年度からコンテナで葉野菜の水耕栽培を始めた。水菜など4種類を栽培し、6月から村内5店舗で販売している。村では夏場、日照りなどで葉野菜の栽培が難しく、台風の影響でフェリーが数週間入港できないこともある。村産業課の川満廣司課長(55)は「野菜をいつも安定的に供給し、給食でも島内産の安心・安全を提供したい」と話す。村民からは「島でこんな葉野菜ができるとは夢にも思わなかった。画期的だ」と喜びの声が上がっている。

 村旧東に設置したコンテナは2棟をつないでおり面積約70平方メートル。無農薬で栽培でき、年間を通した生産計画が可能。内閣府の沖縄離島活性化事業の一環で、事業費約4千万円のうち約3千万円が国の補助だ。

 現在はリーフレタスや水菜、小松菜、チンゲンサイの4種を栽培する。スタッフ6人が交代で勤務し、月~土曜までの週6日、1日約200株を出荷。年間約7トンの出荷を見込む。

 村内5店舗で1袋税込み180円で販売するほか、ホテルや飲食店でも使用されている。学校給食の地産地消でも活用し、2017年度は島内産約31%だったが、50%を目指す。

 光熱費などの維持管理費は、本年度の状況を見るといい、川満課長は「もうけるためではなく、島民が安心して暮らせるための事業」と住民サービスの一環と強調する。村民アンケートで要望を聞き、将来的にはコンテナを増設したい考えだ。

 村内で約70年にわたり営業する与儀商店の田仲瑠美子店長(56)は、台風の影響でレタスを1個700円で販売したこともあるという。

「水耕栽培の葉野菜は台風に関係なくほぼ毎日入荷するので、みんなとても喜んでいる。採れたてでみずみずしく、とてもおいしい。サラダのバリエーションが増えた」と歓迎した。 (豊浜由紀子)(夏の野菜不足に悩む島で新鮮野菜を安定供給 南大東村)

 
「モヤシが高級品」だと言っていた多良間島と同じ問題を南大東島も抱えているんだね。確かに今日は、「葉っぱ」が売られていましたな。離島における供給の問題は複雑ですな。
 
13時から午後の部が始まる「ふるさと文化センター」に行く。しかし、ヤツらがまたしてもいた。「ヤツら」といっても、羊じゃないよ。団体め。オレの行くところに来んなよ、ったく。
 
ここは、展示もさることながら、何かしら資料がないかなと期待していた。多少それっぽいのがあるが、あまり多くない。その中で唯一使えるのは『南大東村誌』である。とりあえず気になっていることが載っていそうなので、椅子に座って読んでいく。
 
僕が、ここまでで気になっているのは以下。
 
①玉置商会時代の「会社支配」の実情と、私貨幣の詳細
②八丈島移民のもたらした文化と、その混淆
③サトウキビ以外の農業と畜産業
④漁業の歴史と現況
⑤やたらと多い外国人の背景と制度
 
①はやはり、一番気になるよね。東インド会社は「会社が統治」した例だけど、あれは、「植民地」の一支配形態であって、「自国内」に会社支配の治外法権地帯を持った訳ではない。会社が通貨発行権を持つって、どういうことなんだ?
 
②は、昨日の秋葉神社を見て思ったことだね。沖縄の地で、神道は、やはり違和感があるけど、八丈島移民の社会なのであれば、信仰のみならず、八丈島の文化がさまざまもたらされて、その混淆が見られるのでは?
 
③は多良間との比較だね。あちらも農業中心で、畜産業も盛ん。もちろんサトウキビも。こちらはどうなんだろう?地形が平ら、という共通点も気になる。
 
④は、特にこの、断崖絶壁の島で、昨日見たあの恐るべき土木工事によって完成した「掘り込み式港」のおかげで、漁船の大型化が実現し、島外への輸出も視野に入れているということだけど、その現状を知りたい。
 
⑤も気になる。町中で見かける外国人の人たちは、どういう背景でこの島に来ているんだ?行政の施策なのか?どの国が多いんだ?それはなんでだ?
 
村誌は、発行年が古く、「現況」を知ることは出来なかった。だだし、①と②については、だいぶ知ることができた。以下は、該当箇所を写真に撮って、それを文字起こししたもの。
 
先ずは、アホウドリの捕獲について。
 

人間を恐れる気配もなく、長い首を伸ばして寄ってくるのを、すかさずこん棒で打ちのめす。急所は首筋で、うまく当たると一撃で死ぬ。仲間が殺されても平気で寄っては来るが、決して飛び去ることはしない。体重が重いので直ぐには飛び立てないからである。図体が大きいので、天秤棒の片方に三羽ぐらいずつ掛けて倉庫まで運び、羽毛をむしり取り、乾燥させてカマスに詰めるのであるが、これがまた大変な作業で、一羽のアホウドリからは大体百匁(375g)の羽毛が採れたようである。

 
吉村昭の『漂流』でこのあたりは知った。鳥島はアホウドリの生息地で、夥しい数のアホウドリがいる。漂流民たちは、このアホウドリを食糧とすることで生き永らえることができた。しかし、南大東島を開拓した、玉置半右衛門は、この鳥島のアホウドリに目を付け、羽毛で財を成した。乱獲に乱獲を重ねて、遂に、鳥島のアホウドリの数は激減することになった。
 
八丈島では、増える人口を受け止めるだけの食糧が足りていなかったらしく、「生き延びるため」の出移民が盛んだったらしい。この辺はマルサスを彷彿とさせる。
 

・・・(八丈島では)限られた面積で生活していくためには、どうしても人間の数を制限しなければならず、そうかといって人間の自然増加を抑えるということもこれまたむつかしく、その積極的な解決方法として、過剰人口のはけ口を広く島外に求める以外に方法はなかった。いわゆる「出百姓」「移民」である。出百姓も移民も同じ意味であるが、現代的に言うならば移民と言うことになろう。
 
・・・明治32年11月玉置半右衛門の所有船第一回洋丸で15名が(八丈島を)出島した。その後、南洋やその他の地域への移民もしだいにその数を増やしていったが、これらの出百姓、即ち、移民のほとんどが家族ぐるみの移住で、先駆者たちの活躍に目をみはり、成功を夢見て出島したのである。

 
このあたりは、例えば長野の山奥の大日向村とも似ているかな。
 

大日向村は全国に先駆けて満洲への分村移民を決断します。1945年8月、ソ連の参戦と日本の敗戦により満洲の開拓民は言語を絶する逃避行を余儀なくされ、大日向の人々もたくさんの犠牲者を出します。
 南佐久郡大日向村から満洲大日向村へ、さらに軽井沢町大日向地区へと十数年の間に二つの村を拓いた「開拓者」の足跡をたどり、長野県から満洲に渡った全国最多の3万数千人もの開拓者たちの心情に迫ります。(長野県の満洲移民・三つの大日向をたどる | 企画展示 | 長野県立歴史館)

 
一番知りたかったのは、ここ。
 

砂糖の販売方法は小作人が各自生産した砂糖の販売を商会に委託し、委託を受けた商会はこれを大阪へ輸送し、大阪共立物産会社に販売を委託するという方法であったが、玉置商会は砂糖一丁について、商会が独自に発行していた紙幣代用券五円を融通することにしていた。この代用券は正しくは南北大東島通用引換券と称するもので、社名が合名会社玉置商会となった翌明治44年にも製造されているが、その印刷場所等については明らかでない。引換券の種類としては、一銭、十銭、五十銭、一円、五円、十円等の額面で、商会の売店で日用雑貨品を購入したり、農家が労働者に賃金を支給したり、商会から労銀を受け取る場合なども、総べてこの物品引換券で決済されていたから、当時の子供たちの中には、この物品引換券を本物の通貨と思い込んでいた者が多かったようである。
 
大正4年(玉置の末期)7月11日の同紙上(琉球新報)に「南村」というペンネームで、「大東島落穂拾い、日用売買取引と代用券の発行高」という見出しで、次のような記事が載っている。「大東島には個人経営の店はない。島民は総て玉置商会の販売部から日用品その他を仰いでいる。それで大東島では貨幣の必要もない。島民は自分の砂糖の販売を商会に委託し、必要に応じて荷為替を受ける。此の荷為替が即ち玉置商会発行の貨幣代用券である。代用券は単位を、一銭、十銭、五十銭、一円、五円、十円まで発行している。島民はこの代用券で取引をしているから、これが即ち大東島の貨幣と言うことになる。この様に会社は日用品の専売権と貨幣発行の権利を握っているから、大東島では大蔵省のようである。会社の責任は重大なりといわねばならない。島民の商取引に使用する代用券の発行高は、一カ年三万円から三万五千円位発行しているとのことであるが、島内には会社会計部に預金する以外貯蓄機関がない。この様な大東島の貨幣は甚だ不安な代物である。これを以て自己の財産とすることは誰しも不安としなければならぬ。若し一朝にして玉置商会が破産でもするとなれば、此の代用券は古新聞の切れ端、価値に於いて何等異る処はない。だから島民に於いても無意識ながらも、代用券の交付には不安と不満を抱いている。従って労働者の如きも彼等の貨幣たる此の代用券を甚だしく軽く見ている。為に一般に貯蓄心が乏しい。以上の事実を綜合して、私は代用券を廃止し貨幣を通用して、島民の貯蓄心を養成し、一方会社の砂糖代の精算や預金部の整理を切望する次第である。」これは玉置商会末期のことである。
 
玉置商会は、年一回住民の預金や砂糖代を精算することになっていたにもかかわらず、明治44年以降一度も実行しなかった。砂糖の販売権は玉置商会が握っており、大阪で販売すると代金は直ちに本店で預かることになる。島内では物品引換券が通用しているので現金は別に必要なかったのである。若し現金が必要であったとすれば、住民も当然決算を強く要求したであろうが、現金の必要がなかった当時の島内状況から、決算に対する関心が相方共に薄かったということは当然の成り行きといえる。
 
物品引換券の制度は、玉置後の経営者であった東洋製糖会社、大日本製糖会社の時代においても引き続き行われていたが、原料代、砂糖代、労銀など、南北大東島で流通するのに必要な資金を送金しないでもよいことになり、年間の利息だけでも会社としては大きな利益を得ることになる。住民が島を引き揚げる場合には、内地の本社や出張所で、各自所持している引換券と同額の通貨を受け取ることができた。沖縄の場合は、馬天や那覇の安田商店で受け取った。
 
生活必需品の売買には玉置、東洋製糖時代と同様に、会社が独自に発行する「物品引換券」が継続使用されていたが、太平洋戦争が勃発した昭和16年から、会社は「物品引換券」の回収を始め日本銀行の発行する通貨に切り換えることにした。
 
戦前の南・北大東島は開拓以来玉置商会、東洋製糖、大日本製糖と総べてが一企業の経営下にあり、自治による町村制は施行されたことがなく、県の出先機関として県議一名が常駐して行政事務を担当していた。町村制が施行されていないから役場もなく転籍、寄留、出生、死亡等の手続きも出来ない訳で、住民は何年島に居住しても入籍出来ないから、ただ単なる出稼ぎ人ということに過ぎなかった。
 
終戦の翌昭和21年(1946)6月11日をもって南・北大東島の経営者であった日糖社の全財産は米軍に接収され、次いで6月12日沖縄民政府の下に南大東島に村制が施行されることになった。・・・開拓以来会社の重圧の下で住民が絶えず待ち望んでいたのは自治制度であり、ここに漸く念願の村制が施行されたことはまさに島の夜明けともいうべきである。

 
いやあ、実に実に興味深い。「通貨」を支配すれば、それが流通する領域に住む人間をも支配できるからね。それが「孤島」となれば、権力は一層磨かれるだろうね。必要物資を手に入れるためには、手段はそれしかない訳だからねえ。従うしか選択肢はないよねえ。実際、あらゆる物資の「供給自体」が困難なわけだ。それは現代でも同じだけども(船の入港にすべてが依存している)。供給ルートが限定的で、それを販売する店も独占状態にあり、決済手段を完全掌握しているんだから、とてつもない権力を握っていることになるよな。しかも、「貯蓄意識」がない、というのも、実に面白い。「制度」が「感覚」を形成するという典型だね。ニンゲン、「貯蓄意識」が乏しいと、どういう行動に出るんだろう。無茶苦茶面白いじゃないか。

 

引換券


 

現存する一枚の現物

  
商会が支配していたことがわかる事例の一つに、学校の運営実態がある。
 

大正4年(1915)11月県の正式認可を得て校名を私立南大東玉置尋常小学校と呼称することになった。

 
 
尋常小学校なのに「私立」だもんね。この辺は詳しくないけど、そういう例は他にもあるんだろうか。教育学とか教育史の研究者に聞いてみたいもんだ。
 
また別の事例としては、警察の問題がある。
 

開拓当初は、合宿での共同生活であったから、家族的で犯罪もなく極く平和な生活であったが、以後、移住者の増加に伴って犯罪や事件等も発生するようになり、玉置商会は当局へ巡査の派遣方を請願し、島内の治安維持に努めた。即ちこれが請願巡査であり、当方の求めによるものであるから当然経費は一切会社負担ということになっていた。

 
「請願巡査」という制度が、これまたよくわからんけど、逮捕や拘留などを、「日本」の法律に拠って、果たして行うことはできたんだろうか?「治安維持」は、何に依拠して行ったんだろう。

 

しかし、調べれば調べるほど、知れば知るほど、フィジーと似ていると思わざるを得ない。フィジーでも、サトウキビプランテーションにインド人の年季契約労働者が入植し、フィジー国内で、独自の社会を形成した。インド人の「統治」は独特なものだったし、フィジー人とは隔離されていた。いやあ、面白すぎるでしょう。
 
文化の混淆については、「八丈島の影響が大きい」ということはわかるんだけど、信仰については、事実のみが列挙されているに過ぎなかった。
 

八丈島に天理教が普及していたことの影響から、池之沢には天理教の布教所もあったが大神宮や金毘羅宮に参拝する者も多かった。

 
しかし、やはり、八丈島からの移民がこの島の社会を作ったわけで、元は無人島だったこの島に入植したのが彼らだった訳なので、「沖縄色」が薄いのは道理だよな。地理的には「沖縄」だけど、所詮、無人島なわけで、そこに入植した人が「島民」になるんだよな。今回見た村誌には、移民たちの出身地の統計もあったけど、日本各地からの移民たちが社会を構成したわけで、そこにはやはり「混淆」の模様が現れるんだろうな。
 
いやはや、実に面白い。③④⑤についても、最新事情をどこかで知りたいもんだ。
 
さて。今夜の晩飯はどうするか。あの「当たりのキッツい大阪おばちゃん」と電話で話すのはしんどい。では、あのおばちゃんの店に引き続いて、二軒目に突入してみますか。宿のごく近所にある居酒屋に、開店と同時に突入する。
 
さっき、店に入り、「営業中」の札を出したおっちゃんが案内してくれる。彼はあたりが良いぞ。優しい応対だぞ。ここは、腰を落ち着けて飲めるかな・・・。しかし、メニューを見ると、食べたかったものが、本日は無いらしい。おっちゃんと、料理担当らしいおばちゃんが会話をしている。
 
「今日、無いヤツは、どれでしょう?」
「マジックで消してあるから大丈夫よ」
 
おっちゃんが敬語なんだ。おばちゃんが店主か?おっちゃんはバイトか??夫婦じゃないんか。
 

厨房

 
食べたかったのは、まだ一度も食べていない、南大東島の名物らしい、「ナワキリの刺身」、そして、なんだかよくわからん「魚のフギ炒め」なのだ。しかしこれらには、無情にも、マジックラインが引かれてある。
 

こちら側の面は良いのだが

 

こっち側がいかん

 
さしあたり、生を頼み、「刺身盛り合わせ(竹)」と、「トーフチャンプル」と「ヒラヤーチー」、そして、おでんの「てびち」を頼む。最初に刺身が来たが、むちゃくちゃ量が多いじゃないか。そして、「ここで居続けられるのか」問題と、「菊の露一升瓶がまだあるぞ」問題が、頭をもたげ始める。
 

命名、みたいな札が下がっている。さっき見た「八丈島からの移民」の姓名だが、「奥山」姓が多かったのだ。現代でも、やっぱり多いのね、奥山さん。

 

リスト①

 

リスト②

 

リスト③

 

現代でも「奥山」多し

  
いや、やはり、このラインナップで居続けるのは難しい。そして、やはり、全体の雰囲気が、「地元の人たちと盛り上がる」感じじゃないんだよなあ。おっちゃんだけが可能性をもっているが、僕の次に入ってきた地元客と話を始めてしまう。こうなると、なかなか難しいんだよね。
 
よし、決断だ。全部「持ち帰り」にしよう。見ると、その地元客のおっちゃんも、泡盛飲みながら、あとはすべて持ち帰りにして、それの出来を待っている状況らしい。やはりこの島の飲み屋は、「持ち帰り需要」が旺盛らしい。僕は、食べかけの刺し盛りも含めて、すべて「持ち帰り」にしてもらった。
 
ということで、今宵もまた、部屋飲みと相成りました。
 

毎日、それなりの水準を保っているよね

 
今日は、漸く仕事をした気分w さて、明日はどうなる?!